T Engagement
初めから分かっていたことだった。
いつか決定的に崩れるということ。
貴方と私の間の距離は、近づいたと思えば遠ざかる、つかみどころのないものだった。
仕方がないのだ。私と貴方は、全く違う道を歩いている。同じだと錯覚するのは貴方が私達の世界に時々近づくからで、私が必死で貴方の道をつかもうとしても、その道を見つけて貴方の姿を確かめるくらいしかできない。その道はどうしても私には踏み込むことのできない、狂気だった。
藍様はもう、ずっと正気ではいられない。いつも虚空を見つめ、思い出したように、貴方は人を殺す。私の目の前でさえ。
私の声が、時々届いていると感じるだけ。
貴方の好きな部屋。夕陽の差す部屋。
扉を必要以上にゆっくりと閉めて、貴方を向き直る。
私が貴方の傍にいよう。命を賭けて。
それは、初めて貴方に会ったときから変わらない誓い。
そして、あの日にもう一度、私自身に課した誓い。
「佳沚、決心がついたの?」
そうしてこんなときでさえも、貴方は私の心を見透かす。
「はい」
貴方はずっと、求めていた。声に出さずに。
「泣かなくていいよ」
座したままの貴方の傍へ、私は進み出る。
「はい」
歪めた私の顔をいとおしげに撫でる貴方の指。
私を慈しむように紡がれる貴方の声。
「私をどうやって殺してくれるの?」
「貴方の目を、私に下さい」
私の技量では殺せない。そんなことをすれば、反射的に貴方は私を殺すだろう。私の剣が貴方に届く前に。
それではだめなのだ。
「いいよ」
澄んだ銀の瞳。どれほど狂気に輝こうと、真実の意味で曇ることのない、美しい瞳。
それゆえに、まるで狂気の象徴の如く思えて仕方がなかった。
捕らわれていたのだ、私は。
どんな宝石も敵わない、美しい王者の瞳に。
「おいで」
私の手が届くように、貴方は座った椅子から立ち上がらない。
短剣を抜いた私の手に己の手を添えて、微笑った。
誰かが見れば狂気じみた笑いと言ったかもしれない。けれど私には、初めて会ったときの純粋な微笑のように見えてならなかった。
揺れる私の瞳を射抜いて、言った。
「私も、約束を果たそう」
それが、なぜか一番堪えた。
「すみません」
貴方を苦しめる私の誓い。貴方を見限ることができれば、どれほど貴方を救えただろうか。貴方は王でいなくてすんだのだから。
「私には、貴方の心を理解できませんでした」
「いいよ」
あぁ、私も、とうに狂っているのかもしれない。
頬から髪へ、そして滑るように肩へ。
触れる、貴方の指先。
「ねぇ、お前は老いたね。あんなに綺麗だったのに、白髪混じりになってしまった」
貴方は変わらず、美しい。漆黒の長い髪も、何もかもが。
「ねぇ、佳沚。お前の、変わらないその目が好きだよ」
私も貴方の瞳が一番好きだったのだ。だから、そう、だからこそ欲しかった。そうすることで貴方を開放してあげられるのなら、なんて素晴らしいのだろうと思った。
けれど同時に恐怖さえ感じる。その私の逡巡を知っているから、貴方は呼ぶのだ。
「佳沚」
「はい」
そして────
私のために敢えて見開かれた左目を、私は突いた。ほんの少し、刃先が貴方を傷つける。致命傷を与えるほどの強さで貫くことさえ、私にはできない。
藍様は悲鳴を上げることさえなく、わずかに息を乱しただけだ。
次いで右目も、と思うのに、手が震えてまともに剣を握れない。己の瞳から零れ落ちるもので、視界も歪んでしまう。
そうして藍様は、今にも取り落としそうな短剣を私の手から取り、どこまでも優しく微笑む。
「佳沚」
「は、い」
「そこまででいいよ」
本当は、貴方は狂ってなどいないのかもしれない。ただ、ひたすらに貴方は、優しすぎるだけで。
「後は、自分でやってあげる」
あぁ……、私は最後まで、どうしようもなく貴方を追い詰める。
誰一人、本当の貴方を受け入れることはできない。
それでも。
「藍様」
それでも────
「わ、たし、は────」
そう、私は貴方を……。
とても偏執的なものだったかもしれないけれど。
貴方の、全てに。
「知っているよ」
「はい」
次の瞬間、貴方の頬を伝ったもの。
それは鮮血だろうか。それとも――――
貴方は悼むのだろうか。私を、この私の存在を。
「私を止められるのは、お前だけだ」
────あぁ……藍様、それは…………
刻の剣がその手に現れる。
それ以上何も言わなかった。
ただ、私は祈るように目を閉じる。
貴方が、どうか解放されるように。
どうか私の亡骸が、貴方にとって大きな意味を持つように。
もう、何一つ考えずに、王であることも、己の存在さえも、分からなくなりますように。
貴方を、救えますように……。
叶うか分からない祈りは、貴方の手によって断ち切られる────。
了
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