U-3
賢い女になると宣言してからいうもの、嶂樺はどうやら本当に猛勉強をしたらしい。
凰はたまに彼女を見かけて食事を共にすることがあったが、目に見えて彼女は理知的な品を備えるようになっていった。それでいて彼女はあけすけな物言いや幼さの残る笑顔を失うことはなかった。
会うたびに冗談のように彼女は好きだといい、凰は笑ってごまかした。
ごまかしていても、彼女は怒らなかった。
それはきっと、形勢が逆転したことを感じ取っていたからだろう。たぶん、とうに見破られている。凰はごまかしていたくて、返事をしないのだ。そして彼女から逃れることはもはや無理だった。何か答えを出すまで、凰は離れることなどできないだろう。
それでも、今の雲をつかむような関係が、凰にとっては十分に心地良い。そんな風に思っていた。彼女にはそれが見えていたから、返事を強要しなかったのかもしれない。あるいはぬるま湯につかったようなこの居心地の良い関係を、彼女なりに気に入っていたのか。
恋人ではないと思う。でも、単なる友人というにはおかしな関係だった。
彼らの会話は、単なる世間話のことも多いのだが、時には嶂樺が法律を全部暗唱して見せること、国の機関とその力関係の表向きを書き出し実質を予測することなど、友人とも恋人とも言いかねる内容だった。
そして、暗唱を間違えればすぐさま訂正し、内政の実情を予測したものに答えをくれる凰を、嶂樺は国の高官だと思っていた。そうでなければ、いくら知識人でも内政のことにまで答えを与えられるわけがない。
出会ってから、2人が食事以外で連れ立ってどこかにいくことは、かなり稀だった。ほとんどなかったと言ったほうが正しい。だから、2人が会うのはほとんどが約束なしの偶然で、場所も大衆食堂と決まっていた。
そうして穏やかに、歳月を重ねた。
いつしか生徒と教師のような関係にもなった2人は、出会ってから5年後の冬の日、昼下がりの小料理店で小難しい話をしながら食事をしていた。
「……これを、解いてみないか」
唐突に凰は数枚の問題を手渡した。食事が終わってゆっくりしていたところだ。嶂樺はちらりと問題を見て、手に取った。
「難しそう」
いいながらもすでに彼女は荷物から筆記具を取り出して、問題を解きにかかっている。
問題に没頭する彼女を邪魔しないように、凰は黙ってそれを見ていた。
しばらくして、遠くから鐘がなった。時報の鐘だ。それとほぼ同時に、彼女は顔を上げた。
「あー難しい。一応解いたわ、こんな感じかしら」
凰に問題用紙を返しながら、彼女は凰の注文していた飲み物に口をつける。
凰は受け取った問題用紙に目を通した。
「どう?」
彼女はなんの気なしに問う。
「あぁ、文句なしだ」
間違っているところは、1つもない。あいまいな答えを求めるところも、及第点だ。
解いてしまった。彼女は、俺のその場しのぎのような言葉を受けて、俺に認めさせた。
────もう、ごまかせない。
ごまかし続けたのに、たった今自分でそれを壊した。
もしも傍にいてくれるのなら、その人は賢くなければいけなかった。けれど賢いだけでいいんじゃない。それだけなら、俺の傍でなくても、仲間になってくれるだけでいい。
「政治に興味はあるか?」
それでもなお俺は、気のない言葉で自分自身をごまかそうとする。
余計な期待はしない。彼女は仲間になってくれる、それだけだ。
「それは、お役人として私を誘ってくれてるってこと?」
本当にそうなら問題ない。そうならいい。でも、違う。俺は彼女にそれ以上のことを期待している。口に、出さないだけ。
俺は、彼女に役人に、官吏になって欲しいんじゃない。
だけど、他の仲間たちのようにずっと俺を支えてくれる1人になってくれるなら、それでいいと思ってもいる。いいと、思い込もうとしている。
彼女が解いて見せたのは、いわば国家試験だ。優秀な官を身分に隔てなく採用するための、試験の問題。学習院を卒業した程度の高度な問題ばかりだった。
今日、たった今行われていたはずの、そのままの試験。
おそらく、試験を受けた誰よりも、彼女の答案は完璧だ。彼女には、優秀な官になる素質がある。
だけど、俺はそれを望んでいたのか?
本当に? 優秀な人材を育てるためだけに。彼女を待っていたのか?
「でもねぇ、私が一体何のために勉強してたか、忘れたなんて言わせないわよ」
忘れていない。彼女は、賢くなると言った。そして、その通りになった。
「ちゃんと答えを聞かせて。それともまだ足りないって言うなら、今以上に賢くなって見せるわ」
今以上? 彼女はもう、十分賢い。単なる知識だけでなく、判断力も行動力も何もかも、いつの間にか追いつけないくらいに賢くなっていた。
「それとも、まだ逃げる?」
あのころの彼女とは違う。俺の弱さにも、彼女は気づいている。それでも、まだ俺を見ている。
「……考える時間をくれないか」
単なる恋人ならいい。でも、彼女の求めているのはそんなものじゃない。そして、俺が彼女に求めているのも、仲間としての彼女じゃない。
……ならば話は別だ。
分かっているさ、呪いなんて今となっては口実だ。
誰も傍に寄せ付けないために、呪いを理由にしていた。自分を納得させる理由にしていた。
欲しい。けれど、失いたくはない。それならばいっそ、いらない。
信じたい。彼女は“俺”を見失うような人だと思いたくない。でも、怖いのだ。
変わらずにいられるのだろうか。
俺はもう、“王”でいることに慣れすぎてしまったのに────。
変わっていくことを怖れているのは、他でもないこの俺。
俺が王だと言ったら、彼女はどうする?
それでもまだ、この俺自身を見ていられるんだろうか────?
そうだと思いたかった。ごまかし続ける情けない俺を見ても、彼女はまだ俺を見放さないでいる。
それから数日後の夕方、嶂樺と会う約束をした。買い物をして、街を歩いて。
白い雪に覆われた街路は歩きにくく、寒い風を受けて指先が冷たくなる。
やがて彼女は小さな家の戸を開けて、俺を招いた。
夕闇の中、あちこちに灯がともり始めている。彼女は俺を無理やり家に押し込めて、ごちそうすると言ったきり台所に消えてしまった。
狭い台所以外に部屋は一部屋しかなく、そこが彼女の生活空間の全てのようだった。小さな机と棚があり、簡素なベッドの傍には洋服ダンスがある。高い位置にある小さめの窓から見渡した景色は、どんよりと暗い空から降る雪に彩られる。白い雪は、ただそれだけであらゆる色より美しい。そう思う。
「高」
名前を呼ばれて、窓から視線を戻した。
あたたかい食卓が整ったそこに、彼女が座っている。
いつものように他愛のない話をしながら、俺はその時間を過ごした。
そしてどうしようもないくらい彼女に囚われていることを思い知らされる。
もう、ごまかせはしないのだと。
窓辺に立って、雪を見つめる。心を落ち着けて、呼んだ。
「嶂」
それまでの話の脈絡を無視して、俺は口を開いた。
「返事をしてくれる気になった?」
しかし嶂樺はそんな俺の心情をお見通しで、俺に続きを促した。
「そうだな……でも、返事をする前にひとつ、言っておかなきゃいけないことがある」
「何? 呪いのことなら────」
「違う……そうじゃない。俺は今までずっと、黙ってたことがある。……俺は、高じゃないんだ」
「……よく、意味が分からない」
「俺の本当の名前は、鳳凰の凰と書いて、凰」
察しのいい彼女は、全て言わなくてももう分かっていた。見たところ、思ったよりも彼女は驚いていない。
「偶然の一致、じゃないわね」
だから、ためらわずに言える。
「あぁ。俺は、この国の国王だ」
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