T-8
貴方がいいと、貴方に伝わることは永遠にないのだろうか。
夜会の夜は華やかに、普段は静かな崔繍城を真昼の如く照らす。
こうした会は、貴族が王を訪問する名目で行われているが、実際は単なる社交場である。
王は出席してはいるものの、それほど重要ではない。とりあえずそこに座っていてくれればいい、という程度の存在だ。
貴族と、議会の面々と、他国の外交官も訪れているそこは、そんな人々が集まっている割にあまり民のためになってはいないだろうなと佳沚は思う。
そんな中、意外な人が正面の扉から現れて、一瞬ホールは静まり返った。
常ならば決して姿を見せない崔繍王子──藍。
「藍様、お呼びだていただければ、お迎えに上がりましたのに」
駆け寄った佳沚は、いつもより幾分落ち着いた華やかさをまとう藍を見上げる。佳沚を一瞥し、藍は玉座のほうへ視線を戻した。
軽薄さは微塵もなく、眉を顰めるどころか息を呑むほどの威容だった。
普段藍を陰で非難する者達が、一瞬声を失うほどに。
藍の入ってきた扉とは反対側にある、王族の入場する専用の扉から程近くに、玉座はすえられていた。
そこには当然、涌と、今は誰も座る人のいない王妃の椅子。そして、王子のための椅子。
一言も発することなく、藍はそこへ至る道をあけさせる。道を進む足取りは優雅で、非の打ち所がない。
誰もがその歩みを見守っていた。
そして刹那、藍は笑った。白刃と共に────
「藍様っ!!」
制止の声は間に合うはずがなかった。
「なぁに、佳沚?」
一瞬、あぁ、藍様はなんて美しいのだろうかと、こんな場合なのにそんな風にどこかで佳沚は思う。
飾りのように腰にあった剣が抜き放たれていた。
その白刃はぬらりと赤い血に濡れて、床と壁に血飛沫を散らしている。
一拍遅れて床に倒れた3つのそれは、もはや生きているとは思えなかった。人だったものを恐れるように、あるいは、藍を畏れるように、人々が下がる。
誰一人、藍に声をかけようとも、倒れたものに駆け寄ろうともしない。
その場の誰もが理解したのはただ一つ。
剣術に明るくない佳沚が分かるほどに鮮やかに、この人は剣を振るったのだ。
そうして、言葉の出ない佳沚に微笑して見せると、平然と言う。
「あぁ……後始末はお前に任せたよ」
道を明け渡そうとしていた幾人かの男達を横目に、藍は剣をはらった。
美しい顔は既に背を向けている。
「なぜ、どうしてこんなことを……!」
ようやく出た非難を込めた佳沚の声に、その人はゆっくりと振り返る。ほとんど返り血さえあびていないから、剣の赤だけが奇妙に目を引いた。
「理由が要る?」
「な……藍さ、ま────?」
「目障りだ、という理由だけではいけない?」
もはや衣擦れさえしないほどに、静まり返っていた。
王族だけに許された帯剣。もしも剣で藍を止めようというのなら、それは涌王の役目だ。けれど、誰の目から見ても、涌に藍を止められるだけの技量はなかった。
王佐頼も、淘史派も、栫派も、誰もかもが息を詰めていた。
理由がないと言い切った藍を、諌めようともせずに。
ただ佳沚だけが藍に正面から向かっている。
そして涌だけが、動いた。
涌はもはや動かない3人の亡骸の傍らに膝をつく。祈るように目を閉じた。
「父上、私はもう出て行きます」
「そう」
父子の会話とはおよそ言えない簡潔な確認をして、藍は惨状に背を向ける。
「────藍」
深く頭をたれ、苦渋の表情を動かすことなく、声だけで涌は呼ぶ。
足を止めない息子に、涌は言った。
「ごめんね」
藍は答えない。振り返ることさえない。
そしてそこにいる誰にも、涌の言葉の真意はつかめなかった。
その人に会ったとき、飛び込んできたのは鮮烈な光だった。
その光が輝く銀の瞳だと気づいたから、貴方に見つめられるのは好きだった。
時に恐ろしいほど鋭く、常に人々を捕らえて放さない。
「佳沚、だったな。城では不慣れなことも多いだろうが、ここには私や父上以外ほとんど人はこない。好きにするといい。お前ならば仕事も上手くやれるだろう」
「はい、頑張ります」
「それから、あまり畏まるな。お前は私の補佐官なんだから、私に意見をするくらい適当にすることだ」
緊張に身を硬くする私に、藍様は優しく微笑んだ。
「いいな?」
「はい!」
この人に一生を捧げようと思った。
馬鹿げているくらい、盲目的に信じようと誓った。
その記憶はまだ新しいのに、貴方は決して同じ言葉を私にくれはしないのだろう。
時々、私はこの記憶こそが、私の幻想の作り出したものではないかと疑う。
けれど、事実だ。
それほどに、藍様は変わってしまわれた。なぜそうなったのか、私には推し量れない。
何となく足を踏み入れたそこは、代々の王子の婚約者や王妃が使う私室だった。
この部屋をかつて使っていた人はとうになく、これからここを使うはずの人物はまだいない。
部屋には、この城の最上階には珍しい、木目の鏡台がおいてある。
何もかもが白いこの城の最上階に、嫁いできた涌王の妃、立夏様は、これだけを持ってきたのだという。
どうしてなのかは知らないが、ここでは異質なはずのそれは、確かに温かみを感じさせた。
穏やかだった王妃の人柄を表すように。
かのお人なら、藍様に、どんな言葉をかけられるだろうか。
「────もしも……」
生きて、いらっしゃったなら……
それは、考えても仕方のないことだけれど。
「もしも?」
不意にかかった声に、私ははじかれたように顔を上げた。
「藍様」
いつからそこにいたのか、扉から少し入った場所で私を見つめている。
冷ややかに笑いながら、藍様は私に問う。
「もしも、立夏王妃が生きていたら?」
ぞっとするほど冷たく、嘲笑った。
見透かされている。私の考えなど、とうに、この人は分かっている。驚いている私を見て、ふと思いついたように藍様は言う。
「佳沚、王妃が死んだのがいつだか覚えている?」
「……藍様の、十五歳の……」
「そう、病弱でいつも幽霊のような人だった。久しぶりに会いに行った私にね、あの人はお願いをしたんだ」
「……それは、どんな……?」
聞かないほうがいい。でも、止められない。藍様は、わざと私に問うたのだ。
私にその結末を聞かせたいがために。
「殺してくれないかって」
あまりにも淡々と言う。
誰が、誰に、何を頼んだと言うのだ?
私は泣き出しそうな顔をして、ようやく言った。
「…………どうして…………?」
「お前は知らないだろうから教えてあげる。この国の王妃はね、王か王子が殺してあげないと、自力では死ねない恐ろしい呪いにかけられているんだよ。それが、この崔繍王家に受け継がれる刻の血統能力の代償だ。だから母上は、本当ならもう死んでいておかしくなかったのに、気が狂いそうな痛みの中を生きていた。それでもね、おやさしい父上は殺せなかった。だから私が殺してあげたよ」
自分の母親を? 酷薄な笑みを浮かべて、貴方は語る。
藍様は決して、母君を憎んでおられなかった。むしろ私が初めて城に出仕した頃、藍様は立夏王妃を気遣い、見舞っておられた。そう────きっと、愛しておられたはずだ。
それを、たとえその人の安息のためでも、どうして実行できる? まだ15歳の少年だったのに。
それは、いったいどれほどの精神力だ。
あるいは既に、狂気か……?
「哀れむ? 迷惑だよ、佳沚」
どこかずれた、藍様の微笑。いつも違和感を持っていた。この方は、一体どこを見ているのだろうか、と。
そう、何のことはない。藍様は見ている────私には決して見えない世界を。
「……藍様は……藍様こそ、おやさしい、だけ、です。私は、ずっと、貴方を見てきた……」
哀れむなどということは、私の身勝手だ。できるはずもない。してはならない。
藍様は、分かっていてその結末を選んだのだ。この人が、哀れんで欲しいと思っているはずがない。
「お前には私は分からないだろう? どうして、淘史の部下を殺したのかも」
大広間での一件だ。あれは、淘史派の人間だったのだと、その時に知る。だって、誰を殺したかは重要ではなかった。藍様が誰かを殺してしまったということが、どうしようもなく悲しかっただけ。
「私には……」
言葉につまる。分からないけれど、淘史派の男だったというのならば、王家に対して不利益になることに手を染めていたとしてもおかしくない。だから藍様が切り捨てたのだとしたら、納得できないことはない。
「ねぇ佳沚、もう信じられない?」
「違います!!」
なぜか、それだけは断言できた。私にはこのお方を見限るなんて、絶対にできない。
「私は!」
「佳沚、だから私は、お前のことが好きだよ」
言葉を遮ると、藍様は私を壁際に追い詰めた。見下ろされ、黒髪が私の頬にかかる。なんて冷酷で、美しい顔なのだろうか。
「出かけてくるね。危ないからついてきちゃ駄目だよ、私の可愛い佳沚」
「待ってください!」
止められないことを分かっていても、私は追いすがった。
「私には、貴方が必要なんです!」
貴方を独りにしてはいけない気がしたから。
「そう。じゃあ行ってくるね、佳沚」
でも……貴方は決して私の前に、留まらない。
私を呼ぶ声を寂しそうだと思うのは、私の思い過ごしなのだろうか。
「藍様っ!」
必死の声で呼ぶと、肩越しに振り返る。静かに声が返った。
「なぁに、佳沚」
「藍様、お願いです、私との約束をお忘れですか?!」
「覚えているよ。でもね、佳沚、お前には私に命令するほどの権限はないはずだ」
「っ……藍、様……」
「約束はきちんと取り付けないとねぇ。だってね、私は一言だって、お前の望むそのままの私になるとは言っていないだろう? 約束は果たしてあげるよ、私が思うままにね」
靴音が遠ざかる。
決定的に埋まらない、私と藍様の間の溝のように、その距離は広がるばかり。一体どうすれば、この距離は近くなるのだろうか。
あぁ、藍様はもう狂っているのだ。それを当然と受け止めて、愉しんでさえいる。
私如きに推し量れるはずのないものだ。全て、あの方の狂気しだいなのだから。
私は時々貴方が恐ろしい。一体いつ、この国を滅ぼそうとするだろうか。滅びてしまえばいいと、口にするだろうか。
言ってしまえばきっと、一分のためらいもなくこの方は滅ぼしてしまう。滅ぼせる。
徹底的に、何も残らないほどに。
それでも。
私は、貴方がいい。
貴方意外に、誰も王にしたくはないのだ。
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