T-7
何かを掛け違えているのか。
廊下を行き交う官吏達。
王佐である私に会釈をしながら通り過ぎるのは、もはや単なる習慣だ。誰も私の顔色さえ気にしない。あるいは、私の存在が邪魔だと思っている者も多くあるかもしれない。
誰もが誰かの思惑の上に動いている。己の望みのためでもあるのか。
通り過ぎようとしたとき、はるか廊下の先の柱の影で渡されたものが、ほんの一瞬目に入ってしまった。
何かを囁き交わしているように見えるが、渡されたものは金と、何かの書きつけだろうか。
あれは、栫派の男と……もう1人は、淘史派の男だ……。
金を渡していたのが栫派の男だということは、淘史派を買収して密偵にしているということか。
考えながら、立ち止まることなく進んだ。
弱みをつかんで、政敵を追い落とそうというところだろう。……一体何に心血を注ごうというのだ、この国の要であるはずの男達は。
だが、こうして断片的な証拠をいくつかつかんでいるくせに、黙っている私も同罪なのだろう。決定的な証拠を得ようとしないことは、結局罪なのだろう。だが、淘史にも栫にも興味が失せたのだ。やりたいなら、勝手に政権争いをやればいい。
どうせこの国の命は、もう長くはないのだから────そう、このままでは。
官吏同士の醜い争いの末に政権など取ったところで、遠からずこの国は崩壊する。
三流の官吏集団が、この大国を動かせると思っているところは、苦笑を禁じえないところだ。
まとまった軍さえないこの国だ。
喇壇に攻め込まれれば負け、峰陵に見捨てられれば負け。即ち、国の終わり。
喇壇が攻めてこないのは、刻の加護のあるという崔繍王にわずかながら敬意を表してのこと。
峰陵が未だに友好的関係を破棄せずにいるのも、同様の理由だ。
だがそんな神話は、もう消えかけている。まして、ただの官吏の治める国に成り下がったとしたら、“崔繍”は終わりだ。
崔繍は“王”の国。その存在が認められなくなれば、もはやそれは崔繍ではない。
新しい国に変わるならともかく、今と同じ体制でいられるはずがない。国家の規模も、然りだ。
そんなことも分からずに、己の欲のために動くこの城。生き物のように、ただ国を食いつぶしていくだけ。
密偵など、探せばいくらでもいる。それこそ全てを処分しようとすれば、この城から官吏を消してしまうくらいにいるかもしれない。
栫派淘史派に関わらず、ましてや中立といわれる者達でさえ、もはや己の保身のためなら、何をするか分からない今。
そう、私も……迷っているのかもしれない。何をするのが、正しいのか。
正しければ、それでいいのか────。
いっそのこと、そう、正しくなどなくとも、民のためでなどなくともいい。
誰かの利己心のためだとしても、互いを追い落とすための策略をめぐらせた末の結末でもいい。
変えられるものなら変えて見せて欲しい。
すべきことも、できることも、私はやりつくしてしまったような気がするのだ。
後は、あぁ……何をすればいい────?
栫も淘史も、私1人で断罪するには大きすぎる。私に、それだけの権力はない。
私がいかに強引にことを進めようとしても、これまで涌様と私のしてきたことを思えば、誰も私達のすることに耳を貸そうとはしないだろう。私1人の力では、あまりに無力だ。
王佐という地位、それに付随するはずの権力はもはや形式だけ。
私の言葉に耳を傾ける者が、この城にどれだけいるのだ? 考えたくもない。それだけならまだしも……涌様の言葉にさえ……。
目先にことだけ処理して過ぎていく。
転がり落ちる坂に目を背けて、せめて平坦な道を歩いているという錯覚を無理に信じている。
執務室へと向かっていた王佐は、深く息をついた。
結局今日も、議会は紛糾して終わった。何一つ涌王は、意見できなかった。
それでどうやって、国を導くのだろうか。そう思いながらも、頼は涌王に見切りをつけたわけではない。
だから見かねて、いつものように頼は意見を言う。するとそれを涌王は聞く。これでは、何のための王なのだろうか。
そう、まるで自分が王の代わりをしているかのようだ。それも、今に始まったことではない。もう、ずっと。決断するのはいつもこの私。
部屋の戸を開け、苦笑した。
この部屋の主はまだ、階下にいる。奏上という名のご機嫌伺いの時間が続いているのだろう。
そんなことをしても、涌王はどうせ何も決断しない。機嫌を伺うだけ無駄というもの。
思わず、こぼれた。
「……馬鹿な人だ」
机にたまった仕事の山。まともに処理できない涌の代わりに、頼はここでもたいていを引き受ける。
無論、頼も涌王も、それを望んでいるのではないけれど、そうしなければ支障をきたすのだ。
決して頼は簒奪を図ろうとしてきたのではない。王に成り代わりたいと思ったことは、誓って一度もない。
しかし今の有様だ。仕方のないことだ、と、頼がため息をつこうかという、その時────
「馬鹿はお前だよ、頼」
不意に背後からかけられた声に、頼ははじかれたように振り向いた。
冷笑を唇にのせて、美しい人が立っていた。
「……殿下……」
────聞かれたか……?
いや、例え聞かれたとしても、一体誰のことを言ったかまでは分からないはずだ。
頼は慎重に、しかし平静を装い、藍の顔をうかがう。
するとそれは、ふわりと幽艶な笑みを浮かべた。あまりにも美しすぎる、傲慢な支配者の……邪神のような、笑み。
「どうかした?」
無意識にこわばった頼の顔を見て、愉しそうに藍は言う。
本当に、どうかしている。国を省みず享楽に耽るだけの王子の言動に惑わされるなど。
「いえ……何も」
「そう?」
「何も、ございません。お時間をとらせて申し訳ありませんでした」
やや乱暴な調子に聞こえただろうかと、頼は藍の様子に気を配る。
「頼、私は出かけるから、佳沚が探していたら言っておけ」
けれど何も読み取ることはできなかった。
嘲笑ともつかない冷たい瞳が、頼を睥睨する。それも一瞬のこと、すぐに踵を返す。
「承ります」
現れたときのように、静かに彼は立ち去った。気配さえ、希薄だ。
1人になって、頼は見えないその人へ言う。
「……どちらへ……?」
そう聞くべきだった。それなのにいつからか、この人に向かうことが恐ろしくなってしまった。
理解できない王子と、不甲斐ない王。
すべて頼の理解の範疇外だ。どうすればこの国が元に戻るのか、考え続けている。
どんなにあがいても、元には戻らないと、いつだって結論は同じだけれど。
ならば、誰ならこの国を導ける?
頼は考える。
────少なくとも、私ではない。だが、淘史か? 栫か?
任せてみればいいのだろうか。だが、それはしたくないのだ。渡したくないのだ。
玉座は、あんな男達のためにあるのではない。
涌様のために、あるはずのもの。そのはずだ……でも、そうあってはいけないところにきているのだろうか……。
それは、耐え難い予測。
「馬鹿な……ことを……────」
頼は呟き、痛みに耐えるように顔を歪めた。
この心が痛むのは、私の思い過ごしだ。
私は私にしかできないことを、信じてやっているのだから。
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