T-5
私の心など、誰にも分かりはしない。
その日は朝からあわただしく、城内は式典の最終確認に追われた人が動いていた。
崔繍城の最上階も例外ではなく、王佐頼は王子である藍の補佐官佳沚と、打ち合わせをしていた。王は前日までに準備を終えて今日は別に仕事をしているため、藍の部屋には3人がいる。といっても、話をしているのは補佐官同士で、始めから藍は頼に近づこうともしなければ、資料を手に取ろうともしない。
このくらいのことはいつものことだった。だから頼から式次第を聞いていた佳沚は、出て行こうとしている藍の姿を捉えた時、愕然とした。
その軽薄な姿は、藍の向かう先を何より雄弁に語る。
「藍様、今日はっ!」
慌てて藍に駆け寄ると、その前に立ちはだかる。
見上げた主は、いつものように笑っていた。
「それがどうかした?」
先を、藍は言わせなかった。
いたって真剣に首を傾げて、佳沚に近づく。
見下ろされても、辛うじて佳沚はその目をそらしたりはしなかった。すり抜けていこうとする藍にすがるように、佳沚は見上げる。
「御命日ですよ……?」
けれど震えそうな声で言うのが精一杯で、佳沚はきっと泣きそうな顔をしていただろう。それは恐れからではない。まして責めたいのでもない。悲しみだ────実の母を弔うことさえ些事だという、藍への。
今日は王妃の命日。そして、それを悼む式典が例年通り執り行われる日。
例年の式典で藍は、いつも何もせずそこに座っているだけだった。それでも、ただ座っているだけでも、藍王子も母親の死を悼むのだと、彼のお人は冷たい印象の人だが、決してそれだけではないのだと、周囲に思わせていた。
誰もが思っていた。それは、ただのこちらの都合のいい解釈に過ぎなかったのだ。
「どうしてわざわざ私が出向く必要があるのか、教えてくれる? どうせ頼や淘史や栫が勝手に手配しているんだから、自分達だけでできるだろう? 私がいなくてはならない理由はどこにもない」
そうだ。いかにも国事のようにやっていても、元々そんな行事は全く無い。死者を口実にした自己満足だ。悲しいのだといえば、王妃を誰もが愛していたといえば、まるでこの国へ忠誠を示しているように見えるから。
「たった一人の……お母様ではありませんか」
佳沚の声はまるで懇願だった。どうか参列してくれという、それが人として普通なのだということだった。思惑などどうでもいい。周囲の反応など本当にどうでもいいこと。それ以上のものがあると思うからこそ。
藍が普通の感覚を持っていないことなど百も承知で、それでも何とか説得しようと思っていた。けれど、それができないことを、悟り始めていた。
「でも、死んでしまったものはもういくら悼んでも無駄じゃない?」
そう、いつだって、藍は正しい。それが人としておかしいとしても。
主従のやり取りを見守っていた王佐頼が、黙り込んだ佳沚に代わって、平然とした藍に向かって言う。
「それは、あまりにも……人の子とも思えないおっしゃりようではありませんか?」
緩慢な動作で頼に視線を合わせた藍は、まさに射抜くように頼を見つめた。
「頼、口を慎むといい」
佳沚を見つめる瞳とはあまりにかけ離れた冷たい瞳で。
「私が母上の子であることを、お前が良く知っているだろう? どうしたらそんな馬鹿げた妄想が出てくる? それともお前は、私が本物の王子と入れ替わった魔物だとでも思いたいのか?」
口調は至って無邪気なのに、どんな断罪よりも背筋の凍る思いがした。
涌王と同じ瞳のはずなのに、これほどに違う。違いすぎるのだ。
「私は母上の最期に立ち会った。それだけで十分足りている。お前達がやりたいと言うなら止めないけど、私まで巻き込むのはやめて欲しいな。私にとっては何の意味もない」
言い切った藍に向かって、カラカラに乾いた口で、ためらいながらなおも頼は言う。
「そ、それが、王子の義務だと、申し上げても……留まってはくださいませんか?」
「お前が言うの?」
「は……?」
「私など王子でないほうがよかったと、顔に書いてあるよ」
「そん────!!」
そんなことはないと、いつもなら笑って返せただろう。しかしこの王子は人の心を平静でいさせてくれない。
憐れむように藍は頼を一瞥し、そのまま身を翻す。
「藍様!!」
佳沚は叫んだが、振り返った藍は佳沚に向かって刹那微笑してみせただけで、結局出て行った。
こうして何度でも思い知るのだ。
藍は誰の手にも掴むことのできない世界を生きているのだということを。
「黎香」
闇の中を、甘い声が囁く。
「蘭紫様」
甘い声が、返る。
月明かりの差し込まない夜。厚い雲に覆われた空からは、静かに雪が降りしきる。
ぼんやりと、自分と女の長い髪をもてあそびながら、彼は笑う。
「ねぇ、お前は、何を信じる? 神様?」
「さぁ……神なんて不完全なもの、本気では信じていませんけれど……」
唐突な問いに内心で少し戸惑いながら、黎香は答える。
「神は、完全だから神なんじゃない?」
「そうですね、そういう風に考えるのが普通の感覚かもしれませが……私には、不完全に見えますわ。完全であるのならば、世界は歪まないでしょう?」
「面白いね、黎香は」
心底不思議そうに言う彼に、逆に問いかけた。
「蘭紫様は、神を信じていらっしゃいますか?」
「信じているよ」
軽く答える。
「意外ですわ。どんな、神を?」
「知りたい? 私が信じるのはね、私の神だ」
「……蘭紫様の?」
馬鹿な女のように首を傾げてみせる、美しく聡明な女。
「そう。唯一にして絶対の、神だよ。神って、すごいと思わない?」
「それは、完全な神とはそういうものなのじゃありませんか?」
「そう? 私はね、神は全ての根拠になるから、すごいと思うのさ。私が黎香に出会ったことも、全て神の成すわざだ。正しいかどうかは、神が言ったといえばそれで事足りる」
その口の語る神は、人々の思う神とは、ずれている。黎香はそう思いながら聞いている。
「私が信じる私の神は、私のすることを正しいと言う。だから私は信じているんだよ」
「それは……少し、ずるい気がいたします」
「そう? 私の神だ、好きにするさ」
窓を覆う紗を取り払うと、そこに見えるのは雲に見え隠れする半月。
「蘭紫様は、まるでご自身が神のようなことをおっしゃいますのね」
おどけていってみる。すると、泰然と彼は言い切った。
「違うよ、黎香。私は、神よりも気高いのだから」
「……怖い人」
平然と言ってのける、傲慢な人。神さえ支配してみせると、きっと簡単に言うのだ、この人は。
「神さえ、あなたを支配することはできないのでしょう?」
「違うよ」
耳元で紡がれる心地よい声は詩のように、彼女を支配しようとする。この甘美な囁きに、どれほどの女が狂ったことだろう。
「神は、そもそも私達に興味などない。関わるとすれば戯れにそうするだけ。支配しようなどと思うはずがない」
目に見える神など、誰かの作り出す世界にしか存在し得ない。
だからこそ、本物の神など、誰にも分かるはずはない。それは決して捉えられないものだ。
なれば、現し世の神などどうにでもなろう。
────そう、この私の思うままに。
本当は神などどうでもいい。よほど人のほうが、興味深い。私には分からないその存在が。
「では、蘭紫様もお戯れに私のところにいらっしゃるのでしょうね」
「そうかもね、黎香」
言いながら、男は思う。
────だが、そんなことはどうでもいいのだろう?
「ねぇ黎香、愛しているよ」
「本当ですか?」
蠱惑的な笑みを浮かべながら問う女は、手慰みに女を抱くような男を愛しても仕方がないと知っている。
知っていても、時に心は堕ちるというけれど。
「愛しているよ、全てを」
何度でも簡単に嘘をつく。そうして心というものを、手に入れてみたいのだ。欲しいわけではないけれど。
偽物でもいいと愛を求めるくせに、近づけば女は壊れるからつまらない。
それでも抱く。壊すまで。
埋めるように。
何を?
この心など、私にさえ分からないのに────。
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