Secret 年代記

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湧岐の章


T-2

 崔繍の誇る白亜の王城を抱く王都、雪渓セッケイ
 そこより北西に広がる広大な雪原は、凍りついた大地が決して溶けることはないという万年雪の上に、幾重にも幾重にも降り積もる雪の野だ。緑の茂ることは決してないそこは、それでも荒野というには何かが違う。
 何人にも汚すことはできないと、そう思わせる空間。その静けさは、一種の神聖さとも言えるかもしれない。
 けれどその神聖な雪原が曇るほどに、王都には影が落ちる。
 雪渓とそう名づけられし都の雪は、重く、国中を埋め尽くそうとするかのようだ。
 季節は本格的な冬である。
 王城の最も内郭に位置する王の居城、その最上階の一室から、雪に白く染まっていく町並みを見下ろす者がいた。
 年の頃は20を過ぎたほど、均整の取れた体躯は、やや細身だががっしりとして、それでいてすらりと高い。胸のあたりにかかるさらりとした黒髪を大儀そうに払い、不機嫌に歪められた顔は目を見張るほどに端正だった。
 そして彼の両瞳は、よく見ると銀の光を帯びている。
 足音が部屋に近づくのを耳に捉え、彼は無表情を装うと扉を見つめた。
ラン様」
 呼びかけにはあえて応えない。無言を返事と取ったか、そろそろと扉は開いた。向こうにいたのは彼と同じく20歳ほどの、几帳面そうな青年だった。
「不敬だな、佳沚」
 ふわりと微笑してみせた顔は、息を呑むほどに優しい。世の女性を魅了するであろう極上のもの。そしてどこか、気迫に満ちた……ともすれば、取り殺されそうな錯覚を覚えるものだ。
 けれど青年、椴 佳沚ダンカシは動じなかった。少なくとも、室に入った目的を見失わないほどには。なぜなら青年とこの室の主たる彼は、7年ほど前から主従としての関係、常に傍にある。主のすること全てに動じていては、何一つ出来ない。
「申し訳ございませんでした。深く陳謝致します。しかしながら、滞っている公務に加えて、本日は来客との食事会もございますゆえ、どうあってもお伝えを──」
 膝を折り、深々と頭を垂れる従者の言葉。それを遮り、藍はからかうように笑う。
「行かない」
「……ですが……」
「行かないと言ったんだよ、佳沚。私はこれでも忙しいんだ。今日もこれから出かけるところさ。どこかの姫君のお相手をしている暇なんて無いよ」
 なるほど確かに彼は、貴族の若君といった風の支度を整えている。品が良いだけではない、軽薄な印象のいでたち──それは、藍の表情と良く合致した。
「……どちらまで、お出かけになられるのですか? 私は、貴方に同行せねばなりません」
「不要だよ。それともお前、あんなところに来る気でも起こった? それなら勝手に来ればいい。どのみちお前は、私については来れまいよ。分かっているだろう?」
「……」
「従者なら、主人の言うことは聞くものだ。それに佳沚、お前は私の補佐官だろう? お前は黙って私の代わりに仕事をしていれば良い」
「藍様……」
「ねぇ佳沚、お前は可愛いねぇ」
 愉しそうにくつくつと笑いながら、藍は扉へと向かった。
「あぁ、客人がいるのか? 丁重にお帰りいただいておいて。何ならお前にやっても良いよ、ぼうや」
 可笑しげに笑う声と靴音が、部屋から遠ざかる。独り残された佳沚は、目を伏せて苦々しげに呟いた。
「……藍様……」
 貴方は、変わってしまわれたのだろうか。そもそも、全ての優しさが気まぐれだったのだろうか。
 そう思いながら。


 藍が階下に続く段を下っていると、前方から上ってくるものがいる。
 王の住処たる城の最上階への立入が許可されているのは、王の親族と王佐たる従者、そんなほんの一握りだけ。だから、姿は見えずとも大方の予想はつく。
 今の時刻、王は会議から抜けられないからだ。自ら会議を早めに切り上げようとか途中退出しようとかいう積極性は、現王にはない。
 とすると、男物の靴音といえば該当するのは1人。
「頼、ひどい顔だが、具合でも悪いのか?」
 微笑のまま、藍は郭 頼カクライという壮年の男に問いかけた。
「いいえ、何とも。お気遣いに感謝致します、殿下」
 何とも軽薄な出で立ちの藍を認めて、彼はわずかに眉を顰める。けれど、特に心を動かされる様子もなく、頼は藍に表面上の敬意を払い、すぐさま立ち去ろうとする。
 しかし、藍の微笑に見据えられ、金縛りにあったように動けない。
「……殿下、何か?」
「何かあると、そう思うのか?」
 嘲笑にも見えたその微笑は、次の瞬間には髪をもてあそぶ優雅な動作に隠れる。黒髪が、その奥の瞳の色を見せない。
「────いえ」
 頼は、ようやく答えた。
「ならば、私の顔に見とれるのも程々にするがよかろうよ。いらぬことを、探られたくはないだろう?」
 息を詰めそうになるのを踏みとどまり、頼は深く頭を下げる。
「ご無礼を、いたしました」
 謝辞を向けられた藍のほうは、もうすでに裾を翻している。彼が完全に階下に消えるまで、頼は動かなかった。そして、その姿が消えてしまってからたっぷりと時間が経ち、頼はようやく頭を上げて息をつく。
 王子、藍には、王族にふさわしいだけの力がある。その声音と発する言葉、表情、動作──指の一本一本の指先まで、常人にはない何かを持ち合わせている。
 それが頼にはまるで圧力のように思える。無言にして人を黙らせ、理不尽を通す程の、まさに圧倒的な王の存在感だ、と。
 しかし、頼は不安だった。それ程の力で、この混乱に満ちた国を、どこへ導くつもりなのか────。
 王になってはならない。
 このところ頼は、そんなとんでもない考えにまで囚われる。
 だが、そう思うのも仕方がないことだ。
 藍は国政のことを決して関知しようとしない。自分本位で、身勝手で、誰の指図も受けはしない。
 今日もどこへ行ったのだろうか。連日のように出かけては莫大な金を浪費して帰る。妻を娶ろうとしない理由を女嫌いだと自称しておきながら、藍が花街を訪れるところを見た議会員は少なくない。
 藍の放蕩は誇張も含んで今や城中に周知の事実だ。
 藍は、無能の王と嘲られる涌の、たった1人の息子だった。
 自身が幼かったころ、涌王もまだほんの幼子だったころから、頼は王に────涌ただ1人に、仕え続けてきた。
 努力を惜しまず、人を思いやり、国を愛する、良き王子だった。けれど、どうしてだろうか。良き王にはならなかった。……なれなかった。
 それでも頼は、王佐として力を尽くして仕えた。そして、それこそがひとつの間違いだったことに、今は気がつく。
 頼は自身に考えうる限りで最良の道を、涌に示してきた。涌はその道を、いつの時もためらいながら選び続けた。
 そのうちに、涌様は考えることを辞めてしまわれたのだ。
 頼はそう思う。そして、王の考える機会を奪った自分の行為こそが、涌を無能にしたのだ、と。
 そして、涌に費やした時間の分だけ、国の方針が定まらず混迷した時間の長さだけ、藍を独りにした。
 結果的に涌の気弱な性質も母のつつましい性格も、藍には受け継がれることなく、藍は王族の威厳を持つ青年となった。
 けれど、歪んだ。
 頼にはもう、藍の心を推し量ることなど出来ない。
 微笑という仮面に隠れた藍の本心も、その欲望も、分からない。分かりたくもないとまで思う。
 この国は、もう駄目だろう。
 何度そう思ったか知れない。
 そして時折、否、日に何度も、繰り返し思う。
 涌様に、殿下の半分でも王威があれば。
 殿下に、涌様の中の欠片ほどでも、国を想う心があれば。
 そうすれば、きっとこの国はこうはならなかった。
 こんなことには、ならなかったのに────。


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