【2】
期限は今夜。
正確に時刻を指定されていなかった今回の指令は、間に合わなかったからといって別段不都合はない。しかし、一応仕事だ。間に合わせるに越したことはない。
さすがに急がなければ、間に合わない。まだ標的を見つけてさえいないのだ。
明るい髪の人間が多いこの地方では、あれほど黒い髪は目立つはずだ。そう思っていたが実際はそうもいかず、なかなか見つからなかった。数日この市場付近を見ているのに、露店の立ち並ぶ通りにあの男の姿はない。資料には、行動を共にする人間はないとあった。定住していないにしろ、生活をしている以上食料品を買い求めにこないはずはないが…。
もしかしたら、調査書の作成された後に移動したんだろうか。
だとすれば、面倒だが本部に連絡を取ってみなければならない。
そう思いかけた時だった。
どこか異質な黒い影が、視界の端に映る。
────いた。
尾行すべく、数メートルの距離を置いて背後につく。
角を曲がったら、どこかに誘い出して────
その時、奴はすれ違う人にぶつかって手に持っていた荷物をこぼす。
ころころ、ゆるい坂を転がってくる……それは赤いりんご。
オレの足元にたどり着いたそれを、オレは手に取っていた。
オレを見て、彼は笑いかける。
無意識に、オレは手を差し出す。
「ありがとう」
「────あ、あぁ……」
何をやっているんだろう。
手には、真っ赤なりんご。血の色にも似た、赤い果実。
「それ、どうぞ。差し上げます」
声は誠実そうな響きをしていた。
立ち尽くすオレの前から、彼は立ち去る。
オレの手には1つ、赤いりんごだけが残された。
追いかければよかったのだ。それでなくても、誘い出すには絶好の機会だった。
それが、なぜかできなかった。
もう、夕刻に近いだろうか……通りを行きかう人々は、家路を急ぐ。
「オレは……」
手の中のりんごを、力を込めて握りつぶす。果汁が指の間を零れる。
瞬間、オレは全身が脈打つような、奇妙な感覚に襲われる。
ぐしゃぐしゃにつぶれたりんご。
それを凝視しながら、この身体がまるで他人のもののように感じる。全身が“何か”を渇望している。
そう……それは、これまでどんなに人を殺そうと感じることのなかったもの。
オレが失くしたはずの……いや、持ってさえいなかったもの。
────求める、という感情。
東天に1つ、星が瞬いていた。今夜は生憎の快晴だ。
だが、もう待ってはいられない。
生まれて初めて味わうこの感覚。どうしようもない殺意の、行き場がない。あの男を、殺したい────。
彼の向かった方角には、もう使われなくなった建物があった。そしてその裏手には、森がある。
奴は、そこにいる。
なぜだろう、“分かる”のだ。
さぁ、殺しに行こう。
この手で、全てを奪おう……。
私の全身を、言いようのない感覚が駆け巡った。
今の私に、私自身の肉体は存在していない。
でも、この感覚を他にどう表現すればいいのだろうか。
あまりにも確かな殺意。
そう、今まで何の意味もなかった殺すという行為が、今確実に意味を与えられている。
いけない。殺してはいけない。
もし殺してしまったら、もう戻れない。
あなたが奪いたいのは命ではない。
気がついて……あなたにとって、その人は必要な存在。
廃墟の前。
耳障りな音とともに扉は開き、オレは中に足を踏み入れた。
すぐに、人の気配は遠ざかる。
……外か。
オレは歩みを進める。高鳴る鼓動を聞いて、溢れそうな殺意を押さえ込んで。
その指先に、鋼の糸をからませる。
鈍色に光る糸は、幾度もどす黒い血に染まってきたものだ。
殺意を押さえるように、わざと手に力を込める。
傷ついた指先から、真っ赤な血が滲んで落ちる。
『この赤い血が流れる限り、私は人間だ』
どこかの三流作家が書いた
そうだろう?
誰かを殺すことが罪だなんて、所詮人間が定めただけのことなのだから。
空には煌々と月が輝き、星々が光り輝いている。
オレは、月明りの中に感じる奴の気配をたどる。
殺す、という行為を、これほどまでに意識したことなど一度もなかった。
近づく。奴の呼吸が耳に届いた。
土と靴裏のこすれる音すらしないくらい、オレには暗殺の全てが叩き込まれている。
速まる鼓動がうるさくて、指先に絡まった糸を今一度見つめた。
顔を上げたオレの視線の先────そこには、少年と言うには少し大人びた、特に目立ちはしないのだが端整でどこか中性的な顔立ちの男がいた。何の装飾もない長剣をその腕に抱き寄せ、空を見つめている。肩に届いた黒髪は漆黒であるにも関わらず、なぜか光を放って見えた。
満点の星空にいつもより幾分か蒼く輝く月は、満月を過ぎて痩せている。
月光に照らされた彼の表情は、昼間とは打って変わって何も感じられない。人形のように、感情が宿っていない……。しかしそう思ったのもつかの間、彼はその瞳に悲しみとも後悔ともつかないものを宿す。資料で見た瞳は、まばゆい光を放つ。それは灰色と言うにはあまりにも美しい輝き……まるでそれは、銀色の瞳────。昼間の光の中では気がつかなかったそれは、夜の空気に溶けて信じがたいほどの美しさを放っていた。
もう、この糸は届く。すぐにでも、ここから殺すことができる。
だが、どうしてだろうか……。
オレは止めていた足を再び踏み出す。
気配を抑えることはもうしない。
もう、一歩──────。
土を踏む足音がする。
さらに進む。もう、一歩────あと、少し。
すでに2人の距離はわずか数メートルほど。
オレは殺気を解放した。自分の中から一気に流出したそれは、たとえ殺気が何なのかを感じたことのない人間でも本能的に反応せずにはいられないほどに強い。
それでも、彼は動かなかった。
気がついていないはずがない。
その背が、オレに「来い」と言っているような気がした。
私はレンが生まれて現実から遠ざかってからこれまでで、かつてないほどに自分と言う存在を強く感じることができた。
いつもならば故意にレンが私に見せない外の世界の出来事が、一体何が起こっているのかが、分かる。
レンと私は同一人物だけれど、少なくとも今、個は完全に分離している。同じであって、違う生き物。心の最奥だけは、知りたくても知ることはできない。ましてやレンの支配下にあった私は、レンについて殆ど何も分からなかった。レンは感情も、目に映るものも、決して私と共有しようとはしなかった。
およそ10年という長い歳月の中、一度だってこんなことはなかった。
絶対的だったレンの支配が弱くなっている。
なぜ……?
私は外の世界が、私に苦しみしか与えてくれない場所が嫌いだった。
レンが生きたいのなら、もうそんな世界は見られなくてもいいと思った。
そう、私は逃げたのだ。
全てをレンに押し付けて、生きるという行為を放棄して、私は逃げた。
言い訳にしかならないけれど、もう生きることがままならなかったのだ。
でも……でも────。
レン、あなたの支配が弱くなったということは、私は……。
オレは立ち止まった。自分がこれほどの殺気を放てるとも、これほどの狂気を内包しているとも、オレは知らなかった。しかしその感情たちは戸惑いよりもむしろ快いものである。
これは、狂喜だ。
どうしようもなくて、オレは訳のわからないことを問う。
「名前は……?」
知っている。今更問う必要もないことだ。
「オレは皓、晟 皓……知っていただろう?」
オレのほうをちらりとも見ず、静かに答えた。
オレは思わず震える。知っていた。オレが何のためにここに現れたのかを、彼はもう知っているのだ。知っていて、オレを待っていたのだ。
耳には高めのよく通る声が残っている。
彼はそれ以上何も言わず、夜空を見上げている。
あたりを再び静寂が満たす。そしてオレは気が付いた。
どうしようもないほどの殺気を放ちながらも、オレはどこか心穏やかなのだ。一体どうしたというのだろう……?
風が吹いた。
赤茶けたオレの髪が、後方へなびいた。
木の葉が揺れて、空気がざわめく。
蒼い月と美しい星が、先と変わらぬ輝きを放ちながら雲ひとつない空から2人を見下ろしていた。
そして……。
「晟 皓────」
オレの中でもはや押さえることの叶わないものが……
「オレは……」
狂気が────
「貴様を殺しに来た」
──────目覚めた。
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