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5章


第5話 幻影の浜

 相変わらずの毎日が過ぎていく。迅はあれから、帰ってこなくなった。
 ゼルディアスに誘われて迅を探しに行きそびれてから、結局迅には会わずじまいだ。
 もう帰ってこなくなってから、随分たつ。あまりにも穏やかな日々だから、迅のいない日々に大した違和感を覚えることはなかったのに、最近になってまた急に気になりだした。
 こんなに長い間帰ってこないことを、心配することはないと思うのに、でもやっぱり変だと思う。前は家にじっとしていることの方が珍しかった。
 迅は気まぐれで、このくらいのことなら気にならなかったはずなのに、なぜか気になるのだ。
 それは、オレの感じている根拠のない違和感なのかもしれない。

 それは、少なくともオレにとっては、全くの偶然だった。
 町を行く姿が、ほんの一瞬見えた気がした。
 探さなければいけない気がして、必死に追いかけた。
 見つけ出して駆け寄ると、いつものように笑っている。
 でも、やっぱり迅の様子はおかしい。少なくともオレの知っていた迅とは違っている。
 自然と問い詰めるような口調になる。
「迅、お前どこに行ってたんだ? いや、そういえばあの時も、どこに行ってた?」
 崔繍からの帰り道で、突然別行動を開始した迅。その後、違和感は大きくなった……?
 いや、オレがようやく気付いたのだ。迅は誰とも違う世界を生きていたのだ。そんな気がする。
 笑っていた顔が、不意に真剣になる。
 そして、こう言った。
「行こう」
 風が吹いた。

 目を開けると、美しい海が一面に広がっていた。
 深い碧の海だ。
「迅、お前────」
 オレが言いかけると、ゼルディアスが眼前に姿を現す。
 あぁ、また……。
 また?
「ゼル、お前どうして……」
 オレの言葉の邪魔をするんだ?
 そうだ、分かった。オレが迅に何かを聞かなければと思うと、いつもゼルディアスが遮っていた。でも、何のために?
「綺麗だろ」
 オレの動揺を知ってか知らずか、迅は海辺に立って柔らかな金髪を潮風に揺らしながら言う。
「ここは、飛鳥大陸最北端の地だ」
「“幻影の浜”?」
 微笑でそれを肯定し、迅はゆっくりと海の中へ歩を進めた。
 今の時期なら、まだこの地方の潮は冷たい。
「おい、迅!」
 振り返った彼の顔に、いつもの軽い笑顔はなかった。それは6年前に亜良での生活が壊滅したあの時以来に見る、真剣な彼の顔だった。
「聞きたかったことがあるだろう、皓」
 オレは否定できなくて、息をつめる。
「この海に、オレは、あの6年前も来たんだ」
 彼にしては珍しく、歯切れの悪い口調だ。彼はそれでも、言葉を紡ぐことをやめない。
「オレは、この海にみんなを沈めた」


 その美しい金の髪を、白く細い指を、仲間の血で赤く染めて、彼はそこに座っている。
 小さく呟く声だけが、届いた。
『戒────』
 その手の中には、親友と呼んだ戒の死に顔があった。オレは考えるより先に言っていた。問い詰めるように。
『迅? お、前……』
 なぜ、戒は死んでいる? どうしてお前が、戒の胸に突き立つナイフをつかんでいるんだ?
 聞きたいことは、言葉にする前に掻き消える。
 何といって、聞けばいい?
 ゆっくりと首をもたげた迅は、無表情で何も語らなかった。
 どうして答えない?
 何一つまともに問いかけていない自分を棚に上げて、オレは非難めいた顔をしていたと思う。
 迅に、消えろと、言われた気がした。
 碧眼はオレを向いているのに、オレを捉えようとはしていないようだった。
 どうすればいいのか分からずに、オレは走った。
 その血にまみれた男が、知らない人のようで怖くなったのかもしれなかった。
 それから2年前に再会するまで、オレは迅を探そうと思ったことなどなかった。
 再会してからも、あのときのことを聞こうとは思わなかった。
 聞いても、はぐらかされると分かっていたから。
 そしてどこかで、真実よりも、迅が生きていたこと、それだけでもういいじゃないかと、自分に言い聞かせていたから。
 大切な人を殺したことを非難できるほど、オレは正しく生きては来なかったから……。


「あの日、オレ達は、上の連中に一掃された……いや、オレとお前以外、かな」
 今までかたくなに聞かれることを拒んでいた亜良での過去を、何よりもその表情で聞くなとオレに願ってきた過去を、そっと、吐き出すように語る。
「みんな死んだ……一瞬だった。生き残ったのは、オレと戒だけだった。そしてオレは、戒を殺した」
 なぜ?
 そう問いたくなるのを押さえて、オレは迅のほうへ歩み寄っていく。
「……戒は……オレを、オレ達を、裏切っていたんだって、そう言った。戒の能力を覚えているか? 人の能力を利用できる、珍しい力だった。その力で……オレの風の力を使って……この力を引き出して、上の命令で戒は、オレを殺そうとした。……殺す、はずだった。なのに……なのにあいつは、戒は、最後になって、オレを助けた……かばったんだ」
 ゼルディアスがオレの後ろにそっと寄り添う。
「お前が現れたとき、上の連中はもういなくなってた。花街の主人が、命を賭けて片付けてくれたみたいだった。オレは結局、どうしてオレ達が殺されなきゃいけなかったのか、全然分からなかった。情報屋が聞いて呆れるよ……」
 風が強くなった。
「戒は……もう、助からなかった。だから、オレは、戒を殺した。……皓、せめてお前だけはと、思った。だから、お前から離れようと思った。離れて欲しいと思った。そうしたらお前は自分から、亜良を出て行ってくれた。結局オレ達の親しかった人は、みんな死んでしまった。オレと、お前を除いて」
「そして、ここにみんなを沈めた……?」
 迅は頷いた。遠くを見つめて。
「1つだけ、ずっと疑問だったことがあった。上の連中が目をつけていたはずのお前が、どうして生きて戻ってこられたのか。でも、納得したよ。お前は刻の使い手だったんだから」
 確かに、動きを止めて逃げ出したんだった。
「この海に、少し前に来たんだ。その時はここにはもう2度と来ないと思ってたのに、やっぱりお前を連れてきたくなってさ……。この海を、見ていて欲しいと思った」
 それが、あの日起こったことだと、迅は締めくくった。
 語ったことが全てではないだろう。
 でも、そこに嘘はないような気がした。
「なぁ、皓。今思えばさ、お前とみんなと、走り回ってたあの頃が、一番楽しかったなって、オレは思う。貧しかったけど、楽しかった」
 おかしい。どうしてこんな話をする?
 どうして、今、話す必要がある?
「迅、なぁ、お前オレに何か────」
 言いかけたオレの肩に、ゼルディアスが両手を乗せた。
「ゼル?」
「ごめんね、じい」
 ごめん? どうして迅が、ゼルディアスに謝るんだ?
「皓、オレはいつから、変だった?」
 迅が笑った。はっとするほどの顔だった。
 いつから? そもそも何が変なのだろう。迅はオレや他の人と、何が違うというのだろう。
 そうだ、迅は変わったんじゃない……?
 迅は、ずっと、何かが違ったんじゃないのか……?
 答えられないオレを見つめて笑ったまま、ゆっくり迅の身体が水面へと傾いでいき、オレは手を伸ばす。届くはずもなく、迅が水面にぶつかりそうになった、その瞬間に。
「────っ、迅……?」
 突風が吹き荒れた。
 水面が大きくうねり、オレの身体をずぶぬれにする。
 風が過ぎると、すぐに穏やかさを取り戻した海があった。
 そしてそこにはただ、静寂があった。
 聞きたいことがたくさんあった。
 けれど、友の姿はもうなかった。


「皓ちゃんお帰りなさい。どこ行ってたの?」
「あぁ、少し……」
「皓ちゃん?」
「ごめん、ちょっと疲れたから、今日はもう寝るよ」
 心配そうにしている空は、それでも何も聞かずにいてくれた。聞かれても何もいえないから、ほっとした。
 部屋に入ると、ドアを閉めて背をあずけ、ずるずると床に座り込む。
「オレ1人でも、空間を渡れるんだな」
「正確には、時空を渡ったことになるが、まぁそうだな。お前ほどの力があれば、わしの術で渡れる」
「じゃあ、迅は?」
 分かりきっていることを、オレは聞く。
「あれは空間を渡ったわけじゃない。風の力で、高速で移動したに過ぎない。あんなことができる風使いも、そうはいないだろうがな」
 知っている。
 それでもゼルディアスは、オレの隣に立ち尽くして、オレの独白のような言葉に付き合ってくれている。
 だから、聞いた。
「ゼル、何が、ごめん、なんだ?」
「…………」
「答えろ、ゼル。どうして迅は、帰ってこない?!」
「…………」
「どうしておかしいんだ! ゼル! 答えろ!」
「…………」
「答えろよ! ……なぁ、教えてくれ……」
 迅は普通ではなかった。あの迅が、今真実を語ったこと自体が腑に落ちない。風の力をあんなに解放していたのも妙だ。それに何より、あの笑顔が。
 綺麗だった。そして、誰かを不安にさせるような顔だった。
 あんなに弱気な顔は、絶対に見せなかったのに……。
「ゼル、お前は……」
 オレは床を向いたまま、顔を見ずに問い詰める。
「答えることは、できない」
「どう、して……?」
「あの者はそれを望んでいない。そしておそらく、あの者はお前に告げるべきか迷っている」
「知っているんだろう……?」
「あぁ、そうだ。だが、わしの口からは言えぬ」
「どうして!」
 押し殺した声で、何度も叫んだ。自分の中で、何度も。
「悪いな、皓」
 彼の姿がかすんでいくのが分かった。
「わしはお前に1つ、嘘をついた」
 ────嘘を?
「ゼル、何を……」
 問いかけた傍らに、既に彼の姿はない。
「……嘘……?」
 何も教えてくれなかった迅とゼルディアスは、いつまでもオレの思考の中でも背を向けていた。


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