第2話 契約
「────空様……!!」
キラは混乱した表情で彼女の名前を呼んだ。
対して、彼女はささやくように言う。
「来ないで」
気丈に言い放ったが、その声は震えていた。
それは、美しい漆黒の髪をした女。
「来てはだめ……」
「そうですとも。死に急ぐこともありません」
そう続けたのは、彼女の背後で殺気を放っている男だった。これといって特徴のない、壮年の男──見た目だけは。
似ている、と思った。……何に?
「……4号……?」
怜の声。呆然と、夢から覚めたような声。
「その通り。49号レン」
「あ────」
明らかにうろたえる怜に、オレは気が付く。似ていたのは、怜だ。そして男は、きっと────
「怜、落ち着け!」
肩に伸ばした手は、半狂乱の怜に払いのけられた。
「来ちゃだめです!!」
よろよろと後ずさりながら、怜は祈るように言った。
「逃げて……皓……はやくっ」
言うと同時に、怜はその場に崩れるように膝をついた。その傍らに、一体いつ移動したのだろう、あの男が立っている。
いつの間にか辺りは、人払いでもしたような人為的な静けさに包まれている。
「手を貸しましょうか? 49号」
感情の感じられない笑みを湛えた男は、顔を上げた怜に向かって手を差し伸べる。
「邪魔だ」
その手を見もせず、怜は────いや、“あいつ”は立ち上がる。いつもは深い茶をしている髪と目が、血の色に似て赤黒く見えた。
「こんなところで何をやっているんです? 49号」
「うるせぇ」
そして、そいつはオレの姿を見るなり狂気にも似た眼差しをする。間違いない────これは、“レン”。怜であり、そうでない、もう一人の怜。
「久しぶりだな、晟 皓」
「あぁ……」
3年前、オレを殺しに来た男だった。
一瞬、目をそらした。その瞬きの間に────!
「くっ……!」
「皓様!」
怜の右手に、鈍く光る鋼糸。そこから滴り落ちる、赤。
「怜……それは、捨てたはずだろう……?」
肩を押さえた指の間から、血が流れている。
「あいつがこれを捨てるわけがない」
「……怜……」
「そうだ。これは怜の罪の証だからな」
つぶやいた彼は、恐ろしいほどの殺気を放った。
「さぁ、あの日の続きだ────お前を殺そう」
狂気に満ちた、その顔。
彼の指先が、かすかに動く。
「離れろ、キラっ!!」
とっさにオレはキラを突き飛ばした。
「人の心配をしている場合か?」
オレの足を鋼糸がかすめる。
いつの間にか、全身には無数の傷。
4号、そう呼ばれた男は、やはり表情の乏しい顔で言う。
「いつまで遊んでいるつもりです、49号」
「うるさい」
4号に捕らわれたままの空は、今のところは幸いといっていいのか、無傷のようだ。だが、オレの体力はもう持ちそうにない。
足元がふらつく。立っているのもきつい。レンの声が……遠くなりそうになる。
「元々指令の内容を逸脱しているというのに、これ以上勝手をされても困りますね。指令も果たさず何の連絡もないまま消息を絶つなんて、本来なら死んでもらうところですが……あなたは失うには惜しい人材です。さしもの幹部も、あなたと殺り合うのは骨ですから。あの方の寛大なお言葉で咎めはありませんが、これ以上の命令無視は許容できませんよ」
「そんなことは、どうでもいいな」
つまらなそうにレンは言った。その指先が操る鋼糸は、確実にオレに傷を負わせる。
────そろそろ、本気でまずい。
せめて何か……剣が、あれば……────剣?
「刻よ、形を成せ────」
そうだ、オレは剣を持っている。
「万物と我が刻の力を以って、血の契約を喚起する。晟 皓の名に於いて……っ」
冷酷なレンの顔が、視界に入って歪む。あまりの激痛に気が遠くなりかけた。
「終わりだ、皓」
「我は召喚する」
頼む。
「応えてくれ────!」
風が、起きた。
強く巻き起こる風は、しかしただの風ではない。大いなる力の流れが生み出す、そんな風ならぬ風────
「刻の子よ、わしを喚んだか?」
背後からの不意の声に驚く。そっと振り向いた。
「刻の、支配者……?」
その顔には不敵な笑み。まるで太陽のような金色の髪と瞳。その身の丈はオレを遥かにしのぎ、ゆうに2メートルを超えていそうだ。日に焼けたような褐色の肌の、袖口から覗く手の甲には、幾何学模様のような、文字のような、そんな刺青か何かがきざまれている。
「安心しろ、しばらく周りの時間を止めている」
なんて圧倒的な存在感だろうか。それは、宝石で言えば原石のような、繊細ではないがゆえに力強い美しさ。時空の狭間に棲むという、刻の支配者。
その言葉通り、オレの周りは全てが静止していた。
「はじめまして、か。第353代刻の王」
「えっ……オレは、そんな────」
「その剣は、刻の王たる証だ。そしてその剣の力を真に引き出し、わしの呪力を使うことができるのは、刻の王だけ……わしの力を欲するなら、契約を交わさねばならん」
オレの手には、いつの間にやら何の変哲もない剣がある。
「契約……それで、オレ達は────空とキラは、助かるのか?」
オレは聞いた。そうでなくては、契約なんて意味がない。
「あぁ、少なくとも今の状況は脱せよう。お前の力を使えばあらゆる術を行使できるからな……問題があるとすれば、お前自身が一度に大量の能力を使うことにほとんど慣れていないことか。だが、それもあの従者がいれば何とかなるだろう。そうだな……空間移動の術が一番手っ取り早いか……」
彼はそう言ってキラのほうを見る。
つまり、キラの協力があればいい、ということだ。
「どの道お前は剣の所有者、今でなくてもいずれはわしと契約するだろうさ」
「それは、オレに王になれということか?」
「違うな。わしが契約するのはあくまで“刻の王”だ。お前が言う、国王になれと言っているつもりはない。もっとも、その結果はわしの知ったことではないがな」
選べ、という。
今、この状況で、だ。
オレが、空とキラと……怜を守るには?
決まっている。選ぶ必要すら、ない。
「どうすればいい?」
それが迷った末の助言を求めるものではなく、契約を求めるものだと分かったのだろう。彼はいかにも愉しげに目を細める。
「簡単だ。お前の名と言葉を刻の流れに残せ。お前が真実契約を望むのならば、契約はそれだけで達せられる」
何でもいい。そんな風に彼は言って、オレを見つめている。
「晟 皓……我、汝と契約す」
オレはそれだけ、契約の言葉を口にした。
その瞬間の、彼────刻の支配者の顔が、ひどく印象に残る。
驚きと、一瞬後の悲しみと、懐かしさと、どこか幸せそうな、そんな複雑な感情が入り混じって宿っているような、そんな顔。
やがて彼は、真剣な表情でオレの目を直視した。そらすことを許さない、誰もが惹きつけられるその瞳で。
「いい名だ……コウ……」
Copyright(c) 2007 Sui all rights reserved.