【U】
帰りたくとも簡単に抜け出すわけにはいかず、そろそろパーティもお開きという頃、カリオは退出しようとスフォルト伯爵に挨拶を済ませてホールの入口へと向かっていた。その途中でも何人もに引き止められ、いい加減うんざりしていた。
興味のない相手であろうと、それとなくあしらっておかねばならない。カリオはまだ侯爵家の御曹司に過ぎず、儀礼称号である伯爵という名もあるにはあるがそれでは弱く、また名乗るつもりもなかった。自分に相応しい名はゾルバ侯爵という名一つと決めていたからだ。
だからこそ、くだらないことで機嫌を損ねることは避けたかった。どうせならば好印象を持たせ、引き込んでおきたい。駆け引きにはすべて勝つ気でいるのだ。今すぐにでも侯爵家を継ぐに足ると、そう思わせなければせっかく来た甲斐もないというものだった。ある意味、婚約よりもよほど重要なことだった。
カリオはその時、螺旋階段の真下に立ち、コルバート子爵夫人と言葉を交わしていた。
「ぁ……」
「っつ……」
子爵夫人の手元に落下してきたものを、避けるには間に合わず、咄嗟にカリオは自分の手のひらで受け止めた。
「まぁ、閣下!」
子爵夫人がうろたえるのをなだめるように、カリオはにこりと笑う。
落ちてきたのはグラスで、手袋が裂けて血が滲んでいる。しかしそれを夫人の視線から巧妙に隠した。侍女に連れられて夫人が下がった頃になって、螺旋階段を下ってきたその人は、声を上げた。
「申し訳ございません……!」
声の主は、まだ若い女性だった。傍目にも倒れそうなくらいに青ざめている。
カリオの手の甲の傷は思ったより深いらしく、白い手袋が赤く染まっていた。
「お気になさらず。私が避け切れなかったのがいけなかっただけですよ」
にこりと笑って、カリオはこれを口実にすぐにでも立ち去ろうと思っていた。
「お怪我を……」
「いえ、ただのかすり傷です」
女性は黒よりやや明るい色の長い髪をした、小柄で、見るからに頼りなさげな人だった。震える手で、レースのハンカチをカリオの手に巻きつける。
それを見ながら、カリオは問う。――――思わずこぼれそうになる笑みを抑えて。
「お名前を、伺っても?」
「わたくしは、ユイス、と、申します。カリオ様」
彼女はまるで狼狽したような細い声で、そう言った。
「カリオ様、車を回しておきました」
「あぁベート、今行く……それでは、また。失礼致します」
カリオは気品高く唇に笑みを乗せ、礼をとる。それから足早に立ち去った。
馬車の前後にはそれぞれ二人の護衛兼御者が控えていて、カリオが乗り込むとすぐに、車は動き出した。
「手当てを……カリオ様?」
車内の明かりを増やし、手元を見せてもらおうとしたベートは、カリオが笑っていることに気がついて眉をひそめる。
その目の前でハンカチをほどき、手袋を脱ぎ捨てて、カリオは……懐から取り出したナイフを手の甲の傷に突き立てた。
「なっ……何を!」
傷口をなぞるようにためらいなく切り裂き、ナイフを投げ捨て、今度は小さな棚から酒を出して傷を洗う。
「毒だよ、ベート」
「毒……とは、まさか、そのハンカチですか?」
「そうだ……あの女、はじめからそのつもりだったらしい」
庶民が一生お目にかかることのない高純度の高級酒を一気に空にして、傷口を止血しながら、カリオは声に出してくすりと笑う。
「……カリオ様、笑い事では……なぜその娘を置いてきたのです。貴方に手を出すなど、どんな言い逃れもできないことですのに」
既に平静を取り戻したベートは、呆れ気味に言った。
「気に入ったからさ」
「気に……入った」
顔色は変えずともどうやら怪訝そうに繰り返したベートに、カリオは続ける。
「この私に、正面から……しかもあんな場所で、よりによって殺しを仕掛けてきたんだ。しかも心底私を心配したあんな顔でね。完璧だろう?」
「一体どこの世界に、命を狙ってきた女性に好意を抱く人がいると……」
「ここにいるんだよ」
「カリオ様……いま、殺し、と?」
「遅いぞベート……まぁ、安心してくれ……そのために余計に血を出しておいた。死にはしないさ」
そう言うカリオの額には汗が滲んでいて、先ほどよりも顔色が悪い。
「無茶をなさいますね、あなたは」
父親とは大違いだと思いながら、ベートは横になるように言った。カリオは遠慮なく広い車中を占領する。
「ベート」
「何か?」
やや苦しそうな呼吸を見て取り、タイをほどいていると、カリオは目を閉じたまま口を開いた。
「ユイスという名、知っているか?」
「……それは、その女性の?」
「そうだ」
「でしたら、さすがに少々てこずるかもしれませんよ。それに、魔王陛下のお許しが出るかどうか……」
「何だ、侯爵家の女なのか?」
「えぇ。ユイス・バーツェフ・ロールス。バーツェフ侯爵家分家のご令嬢です」
「バーツェフね……」
「おやめになりますか?」
「まさか。バーツェフ家は気に入らないが、あんな良い女は他にはいない。それに、シャルデル王は強いが無能だからな、認めさせるくらいなんともないさ」
「そうですか」
「あぁ」
嬉しそうにカリオは言った。
止めないのかとカリオが問うと、止めたって無駄なのでしょうと返したベートに、カリオはもう一度笑った。
戻ったゾルバ邸では、カリオの父シェリオがいつものように病に臥していた。猛毒を抜いたとはいえ完全ではなかったため、微熱に苛まれて体調不良のカリオは、その日は父の部屋を直接訪れることもなく自室へ下がった。
ある程度熱も下がった翌日、カリオは父の元へ報告へ行く。
「それで、どうであった?」
朝のうちはよほど体調が悪くない限り机についているシェリオは、いつもの調子でやってきたカリオが、半日ほど前には毒にやられたことなど知る由もない。軽く問いかけた。
「見つけましたよ」
あっさりと告げられた返事はさしものシェリオも予想外だったらしい。まさかカリオがそう簡単に妥協するとは思わなかったのである。
「そうか……どんなお人だ、カリオ」
「実に素晴らしい女性です」
にこり、と笑った息子の顔に、含みを感じたことはさすがだった。気づいてしまっては、素直にそれは良かったと口にするのはためらわれる。
「……カリオ、訊くが、どこを、気に入った?」
「私を陥れようというところですよ」
「――――――カリオ……」
予想通りといえば予想通りの答えに、頭痛がしてきた気がするのは、おそらく気のせいではないとシェリオは思う。
「安心してください。ほんの少し毒を贈って下さったのですが、殺される前に抜いておきました。まぁもっとも、父さんなら確実に今この世には存在できなかっただろうというくらいの、極上の毒でしたから、私も少し驚きましたが」
素早い対応とカリオの持つ侯爵級の魔力がなければ――――カリオでなければ、命はなかっただろう。
「お前という者は……」
何があったのかをある程度察し、シェリオは呆れた。
息子のような者をきっと、奇人と言うのだろう。
そして権力を持った奇人は、全てを滅ぼしもすれば大いなる繁栄を築くことも可能にするのである。
カリオは後者になるのだろうと、シェリオは確信めいた気持ちで思っていた。
そう、少なくとも、今のカリオならば。
「そうだ父さん、バーツェフ侯は確か、代替わりしたばかりでしたね?」
「あぁ……少々変わった男が新しい当主だ。何だ、その女性というのはバーツェフ家の方なのか?」
「えぇ。ユイス、と言っていましたよ」
「そうか……まぁいい。お前の好きにするといい。だが、目的は忘れるな」
「もちろん、覚えていますよ」
帰ってきた笑貌のあまりの怜悧さに、シェリオは息をのんでいた。
「ゾルバ家は、私がもらいます」
叔父、ジオラ・ゾルバの誕生パーティを兼ねた場を、ロット伯爵家が設けるという知らせが届いた。
侯爵の実弟であるジオラは、目立ちたがらない穏やかな性格で、そんな華やかな場は好まない。しかし、ロット伯は侯爵四家を招いての大掛かりなものにするつもりらしかった。
どうせ侯爵家にパイプを作り、ジオラをゾルバ家の当主にした暁には、四代貴族の承認を得てあわよくば侯爵位に叙せられれば、とでも思っているのだろう。
ロット伯爵はカリオの立場が少しでも弱まり、ジオラの地位が高まれば、そう思っているのかもしれない。
しかし、ロット伯爵にとって思わぬ誤算があった。カリオに、わざわざバーツェフ一族に接触する機会を与えてしまうことになる、ということだ。
そして与えられたチャンスを無駄にするほど、カリオは愚かではないのだ。
Copyright(c) 2009 Sui all rights reserved.