明るい客室には物もなく、外から鍵がかかっていた。鉄の城では昔から、国の要人になんらかの嫌疑がかかると、この独房には見えないほど整えられた客室に入れられていたらしかった。
「マナさん、でしたね」
かかった声は王弟ストラールのものだった。
「兄さんから、一つ質問です」
「何でしょう」
彼女、マレーナ・シルシェドールは、閉じられたままの扉に向かって問う。
「フィリオさんを、憎んでいるか……と」
「……憎んでいないかと聞かれれば、わたくしには答えられません……ただ……」
扉はそっと開き、ストラールはマナの瞳に宿る光を見る。
「わたくしは、わたくし自身より憎い者などいないわ」
「……ここから出てください。兄さんが……きっと、フィリオさんも、あなたを待っている」
「フィオが?」
双子の姉、セナにそっくりだというマナ。しかしストラールはセナを知らない。セレーナ・シルシェドールという女性がいたということを、おぼろげに覚えているだけ。
革命以前は、兄であるリディアールとの仲も表向きは良くも悪くもないものだった。つまりストラールは、話で聞く以外に革命以前の兄の姿を知る由もなかった。当然、フィリオやその親しいものに会うはずもない。
マナの声に込められた響きには、嘲りと期待が同居した不自然さがあった。
なぜ彼女がフィリオにこんな不思議な態度を取るのか、ストラールには分からない。
「行きましょう。それが、魔王の望みなら……」
マナは無表情のまま、優雅に立ち上がった。
*
冷たい風が吹いた。そっと彼女の頬を撫でてみても、ただ風以上に冷たいことを確かめるだけだ。
窓が開いたままの広い部屋には真新しい棺があり、その隣に一人の男が膝を着いて座っている。
「フィリオ、そろそろ行かないか」
壁際でリディアールは呟いた。
「あぁ……」
男は感情のこもらない声でそう告げたきり、動かない。もうここにこうして、どのくらい経つだろう。
微笑んだままの彼女は、何も彼に伝えない。無為な時が過ぎるだけ……。
「リディ……」
「何だ?」
「黙っていてくれないか?」
男は苦笑していた。己が何より罪深い存在であるかのように……。
「セナは、オレが殺した」
「────な……何を────!」
「いいんだ……復讐するのは、オレだけでいい」
「フィリオ……」
「セナが守った人達を、みすみす死なせるわけにはいかない」
苦笑はいつの間にか、冷淡な顔に変わっていた。
「オレに、殺させてくれ」
リディアールは棺へ歩み寄った。
「いいんだな……憎まれても」
「あぁ……構わない」
ずらされていた棺にそっとふたをする。
「憎まれるのは、当然だから────」
リディアールは懐から銃を取り出し、手の中のそれを投げ渡す。
「リディ……?」
「復讐するのだろう? それならば、
棺の上に、彼女が好きだったという緋色の花を捧げる。
「私は王を殺す。私に付き合ってはくれないか?」
強い光を深い闇を宿したリディアールの瞳。それを見て、男は確信した。
「いいよ────」
リディアールだけは、何があっても信じられる。
裏切られても、悔いることはない、と……。
憎み、憎まれることを選んだのは、他でもなくセナのためだとリディアールには痛いほど分かっていた。
セナがシルシェドール家の罪を全て背負ったことも、シルシェドールにはまだ利用価値がある、滅ぼすには早いと示そうとしたことも、リディアールにしてみれば、よくあるただの政治的なものだ。
しかしフィリオは恐れた。セナの死が無駄に終わってしまうことを、何より恐れたのだ。
きっとセナの欠けたあの家族が、これまでのような幸せな日々を送ることはできない。
そう分かっていてなお、あの家の平穏を守りたかったのだ。
真実を知れば、あの優しい兄妹は命すら歯牙にもかけないだろう。
セナが、まさか自分達のために死んだと知れば……結果は明らかだ。
そんなことが、セナの望みではない。
フィリオが恐れたもの、それは憎まれることでも命を狙われることでもなく、セナの大切な人達の平穏が失われることだった。
その気持ちが、リディアールにはよく分からない。少なくともリディアールは、フィリオの両親を必死になって守ろうとは思わない。
ただ、分からなくても。分からないからこそ……リディアールはフィリオに、惹かれたのかもしれない。
*
「駅長、電報です」
「なんじゃ、珍しい。今日はもう休みにしようと思うとった」
配達員から受け取った小さな紙切れを開いて、何気なく音読する。
「本日車両を用意しておくこと……リ……リディアール・ダリ……!」
「なっ……魔王陛下が?!」
帰りかけていた配達員は、顔を青くした駅長を振り返る。
ここはサイル国王都サイラスの小さな駅。駅には人が少なく、駅員は駅長と合わせても三人しかいない。
「何てことだ……僕、町に知らせてきます!」
「わしもこうしてはおれぬ……」
駅長は何年かぶりに構内放送の電源を入れた。
「緊急に通達。────本日午前八時三十分、リディアール陛下がお越しになられる。用のない者は即刻退去せよ」
人の少ない駅に、それは十分すぎるほど響き渡った。
配達員が城下町にリディアールの来訪を伝えてまもなく、鉄の城から正式な達しがあった。
本日午前八時過ぎ、黒軍が城下を通過する、というものだ。
この、久しくなかった魔王の城下町訪問に、城下の人々は凍りついた。
戦いの王、リディアール・ダリ。サイル国八代国王が正式に城下町に出向いたのは、即位式が最後だ。
人々の間で、リディアール率いる黒軍の通る道に、生きるものはないと言われる────それほどに、おそれられているのだ。国民は、リディアールがその父王であったグレベール王のような狂王でないことは知っている。だが、不落といわれた鉄の城を落とし、己の父を殺し、その数十倍以上と言われた軍勢に勝利したリディアールと黒軍は、決して触れたくないものだった。
普段なら人の多く行き交う中央通りも、そのためにひっそりと静まり返っている。
活気あるはずの市場も、人通りはまばらだった。
「陛下がお見えになるらしい」
「何だって? どうしてあの方が?」
「出兵されるときも、ここを通られなかったのに……」
「何でも、鉄道を使って出兵するとか」
「とすると……ついに、バーツェフ領か? 騎獣をお使いになれば速いだろうに……そうなさらないということは、大軍で討つおつもりなのかもしれない」
「さぁ、どうだか。とにかく、早く帰ったほうがいいさ。不興を買うようなことになれば、命がいくつあっても足りない」
こんな会話が、ところどころで交わされている。
人々のほとんどは、やがてリディアールの軍勢に会わないように、中央通りから去った。
だから、通った軍勢の中に副官の姿がないことに、誰も気がつかなかった。
今回黒軍は、その半数以上の約八十名がリディアールに従う。これは、革命以来例のない大規模な出兵で、極めて異例のことだった。原因はフィリオがいないこと、そしてフィリオを助け出さねばならないこと。相手が四大貴族の一角である侯爵家だということも、原因の一つだ。城ではストラールと残りの黒軍、そして常駐の兵が留守を預かることになっている。
リディアール達は十数等の騎獣に物資を積み、間もなく駅に到着するところだ。
「何をいら立っておられるのですか」
「いら立ってなどいない」
明らかに怒気をはらんだリディアールの言葉に動じることなく、カリオは微笑を絶やさない。
「そんな風では、駅員が怖がると思いますよ」
「うるさいぞ、カリオ」
「これは失礼を……ニズレー君、先に行って、駅員に伝えておいで」
「かしこまりました」
そんなやり取りがあっているとは知らず、馬車の中のアストはただ外を眺めている。城下町は、アストにとっても二年ぶりのことだ。
「どうかなさいましたか、アスト様」
「何でもない……」
アストの侍女であるライナは、心配そうにアストを見ていた。
これから戦地へ行くというのに、この落ち着きよう。
アストは、不安を感じないのだろうか。
「ライナは、私についてこなくてもいいんでしょう」
「え? あ、えぇ……」
「帰って良いわ」
「……何か、お気に障りましたか?」
アストよりも年上のはずのライナは、美しく物憂げな少女をそっと見つめる。
「違うわ……ただ、私のわがまま。ライナには、城にいて欲しい」
窓の外を見たままのアストには、有無を言わさぬ気品があった。
「……では、城でお待ちしております、アスト様」
「えぇ、お願いね」
アストは城下の変貌ぶりに、二年前の姿を重ねてみる。
崩れた多くの建物と、黒く変色した血の石段。そして、たくさんの人────その、屍。
もう二度と、あんな光景は見たくない。
「アスト様、着いたようです」
『行ってらっしゃい。あんまり遠くに行かないのよ』
「アスト様?」
何気なさを装って、そっと馬車を降りる。
あの日とは似ても似つかない、よく晴れた空が広がっている。
「侯、ただ今動きがあったと……」
「そうか。ならばこちらも、そろそろ動こう……あぁ、支持は?」
「すでに」
「ん。しくじるでないぞ。何しろ黒軍が大軍で来るのじゃ、こんな機会はまたとなかろうて」
バーツェフ邸には多くの兵が集まっていた。そのほとんどは、バーツェフとシルシェドールの私軍で、黒軍より優れているとは言い難い。しかし、戦争というのは本来数も勝負のうちだ。今回に限っていえば、リディアールもいつもどおりの実力を発揮することはできまい。それが、エルベルクス・バーツェフ侯爵の考えだった。
「心理状態が及ぼす影響は、案外大きいのじゃ」
喉を鳴らして笑う彼は、とてもその年からは想像できないような生気に満ちた様子だった。
思えばこの二年、彼は実に退屈だったのだ。
変化が、何より彼の好むもの。
「使者を迎える準備でも、しておるかのう……」
外はまだ、静かだ。
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