Blue Blood 胡蝶の夢

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二一話



 広い広いゾルバ本家の庭の端に建つ、日当たりのいい館。
 その小さな館の正面玄関の近く、瀟洒なベンチに、ゾルバ家の嫡子は腰掛けていた。
 丁度ベンチが大樹の陰になる昼下がり、白いシャツにゆったりした黒のズボンというごく質素な身なりで、髪もいつもと違って毛先だけを軽く束ねている。
 本当は医者に、今日までは絶対安静だと言われていたのだが……。あまりに天気がいいので、もったいなくて抜け出していた。
 肌寒いくらいの風に、開いたままの本のページがぱらぱらとめくれる。
「フィオ君」
 呼ばれて、フィリオは立ち上がった。医者が見たら小言ではすまない雷が落ちるところだが、今は咎める者もいない。
 あぁ、なんて、穏やかな……優しい顔だろうか……。
 正面から見て、クレージェは思う。
 魔族の、それも貴族の男子の誰が他に、こんな顔を出来るというのだろう。
 何も変わらない。
 この、優しさだけは……。
 ――――あの、優しい少年が……。
 一体、どれ程の思いで、強さを手に入れたのだろう。
 残酷な魔族の血を、喚起したのだろう――――。
 そう思うと、もう……聞きたいことなんて、なくなってしまったのだ。
 何を言って良いのか、分からなくなってしまうのだ。
「……オレは……まだ、君を……」
 だから、自然と口をついた言葉は、本心だったのかもしれない、そう思う。
「君を、義弟おとうとだと思って、良いのかな……」
 晴れやかに、彼は笑った。
 幼くも思えるその優しい顔で。
「オレは――――……あなたの、本当の義弟になりたかった……」
 それは拒絶。
 もう、なれるはずもないから……歩む道が違っているから。
「お元気で……」
 それでも……弟、だったのだ……。
 もう、会うことは二度とないであろう、妹の愛した男。
 その顔を、声を、焼き付ける。
「フィオ君も」
 そして背を向けた。
 傍らのベンチには、いつかの真っ青な紐。
 確かに彼が義弟だったという証明の、彼の髪を飾るに相応しい彼の瞳とよく似た、切ないくらいに願いのこめられたもの。

 どうか、彼が……いつか。
 安らげる場所を、見つけられるように……――――。


 クレージェの去った後、フィリオはもう一つの魔力の気配の方へと向かった。
 ずっとそこから動かない人が、いるはずだった。
 人気もない静かな……そこは裏庭のような所。
 色褪せはじめた木々の葉が、時折強い風に舞う。
 彼女によく似た気配。けれど、もう間違えるはずもない。
 その姿をとらえる。
 最期の彼女と見紛う程の笑顔が、そこにある。
 まだ少女のようだった彼女の、ひどく大人びた顔に似て――――。


 私達が出会った頃。
 まだ、貴方も姉さんも、そして私も、子どもだった頃。子どもで、いられた頃。
 貴方は姉さんの前では、無邪気に笑っていた。
 姉さんと一緒になって笑って、冗談で私を笑わせたりした。
 私は知っている。
 貴方が、姉さんの前でだけは、ひどく安心していたこと。
 あの場所は、貴方のすがれる最後の手。
 きっと、離したくはなかった、希みだったはず。
 でも姉さんはその手を捨てた。
 離したくはなかったかもしれない。でも、その手が腕ごと引き裂かれることを、甘んじて受け入れてしまった。
 それが、運命で、最善だから、と。
 腕だけになった手はもはや彼の場所ではなく、差し伸べられた手をつかむしかなかった彼は、闇を手にした。
 優しすぎる心と残酷な血は同居を許さず、歪に整ったバランスは、彼を極限へ、高みへと導きはしたけれど――――。
 殺しても、心は死なない。
 浮かび上がった心は彼自身を苛み続ける。
 忘れようと、彼は新しい居場所を見つけたのかもしれない。
 痛みを忘れるために別の傷を作るような……そんな矛盾した行為でしかなくても。
 他に、貴方は貴方を守る術が、なかったのだから。
 貴方は、貴方でしか、いられなかったのだから……。


 貴方は知らない。

「マナ、ちゃん……」
「お別れを、言いに」
 声が詰まる。生きて、いるのだと……ようやく、実感する。
 いつも、貴方は遠かったから。
「君に謝らないとね」
 触れられるほど近くに、今貴方がいる。
 貴方の“心”が、在る。
「君が、セナになってくれると思った。君は、セナじゃなかったのにね……」
 切なげに目を細めて、自嘲の刻まれた声。
 どうして、私は、この人を……
「フィオ、さん」
 貴方に――触れてみたかった。
 今、貴方をそっと、抱きしめているようにして――――。
「マナちゃん……――――?」
 少し驚いた顔の彼を見上げる。
 私が、代わりになれればよかった。
 彼から離れて、思い切り笑おうとしたけれど、きっと泣き笑いのような、そんな顔をしていたと思う。
「本当に、女心の分からないひと……」
「――――――マナちゃ――――」
「さようなら」
 お願い、何も言わないで。
「――――――――さよなら、マナちゃん」
 もう、振り返りたくないから……。


 遠くなっていく彼女の背を、オレは見ていることしかできなかった。
 これで良かったのだろうか……。
 ねぇ、セナ、いつか君に言われたのと同じことを言われたよ。
 でも、オレはどうしようもなく鈍いから、きっと分からないだろうね。
 銃の機嫌よりもずっと女心は難解で、理論じゃどうしようもないんだ。

 ふと、空を見上げてみる。
「……生きてるなぁ……」
 風が、踊っている。


 遠く遠く――――サイル国の果てを目指して、クレージェ達は進んだ。
 地位も財もなく、厳しい旅だった。
 やがて川の流れをたどり未開と言えるほどの場所へ、彼らシルシェドール家の生存者はたどり着く。

 フィオ君、最近思うんだ。
 オレ達は、真実を知って、誰を恨みたかったのでもないんじゃないかって。
 誰かに復讐したかったのでもなかったんだろうって。
 ただ信じたかったから。
 君が無実だと、信じたかったから。
 君を、どうしても憎みたくなかったから。
 理由が欲しかった――――君を憎まずに済む理由が。
 そう、思うことにしている。
 フィオ君、オレ達はようやく、前へ進めそうだよ。
 君はどうしているだろうね。
 ここは遠すぎて何も届かないから……君が、元気にしていると、いいんだけれど――――。



 早朝、鉄の城のはるか上空を、悠々と飛ぶ姿があった。
 その姿――飛龍は、慣れた様子で塔の上に降り立つ。
 朝日にその影をくっきりと浮かび上がらせていた。
 飛龍を撫で、労いながら、人気もまばらな朝の城をぼんやりと眺める。
 と、その時、下へ続く階段を上ってくる足音がした。
 かすかな魔力の気配。その才と、時々感じる儚さが、どことなくセナに似ていた、そう思う。
 <深更>を渡したそのために、彼女はきっと傷ついたのかもしれない。
 力無き者は、いつも悔いるだけだ。
 けれど、力有る者はいつだって、利用され、己の力に苦悩する。
 ――――オレは彼女を、利用したのだろう。

「ただいま、アスト」


 階段を上りきったまま硬直した私を振り返って、ただ彼はそう言った。

 あぁ……私は、まだ大丈夫だ。
 だって、彼は生きている。
 たくさんの命を切り捨てて、踏み台にして、犠牲にして……。
 それでも、生きているわ。
 こんなにも、彼のままで……。
 ――――ねぇ、母様……。

 私もまだ、生きているから。


「アスト?」
 両手で顔を覆って、彼女はうつむいた。
 どうしていいか分からずに、ただオレは動けなかった。
 でも、なぜだろう……。
 その細い肩が、白い指先が……愛しい、と、そう思わせた。
 それはセナに感じるそれとは似ても似つかない愛しさ。
 彼女を、その魂を……そう、まるで魔族がリディアールの魔力に対して無条件に惹かれるように。
 無条件の愛とでも言うべき、一方的な愛。

 これは魂の記憶。

 公爵家に流れる、血の引力――――。


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