広い広いゾルバ本家の庭の端に建つ、日当たりのいい館。
その小さな館の正面玄関の近く、瀟洒なベンチに、ゾルバ家の嫡子は腰掛けていた。
丁度ベンチが大樹の陰になる昼下がり、白いシャツにゆったりした黒のズボンというごく質素な身なりで、髪もいつもと違って毛先だけを軽く束ねている。
本当は医者に、今日までは絶対安静だと言われていたのだが……。あまりに天気がいいので、もったいなくて抜け出していた。
肌寒いくらいの風に、開いたままの本のページがぱらぱらとめくれる。
「フィオ君」
呼ばれて、フィリオは立ち上がった。医者が見たら小言ではすまない雷が落ちるところだが、今は咎める者もいない。
あぁ、なんて、穏やかな……優しい顔だろうか……。
正面から見て、クレージェは思う。
魔族の、それも貴族の男子の誰が他に、こんな顔を出来るというのだろう。
何も変わらない。
この、優しさだけは……。
――――あの、優しい少年が……。
一体、どれ程の思いで、強さを手に入れたのだろう。
残酷な魔族の血を、喚起したのだろう――――。
そう思うと、もう……聞きたいことなんて、なくなってしまったのだ。
何を言って良いのか、分からなくなってしまうのだ。
「……オレは……まだ、君を……」
だから、自然と口をついた言葉は、本心だったのかもしれない、そう思う。
「君を、
晴れやかに、彼は笑った。
幼くも思えるその優しい顔で。
「オレは――――……あなたの、本当の義弟になりたかった……」
それは拒絶。
もう、なれるはずもないから……歩む道が違っているから。
「お元気で……」
それでも……弟、だったのだ……。
もう、会うことは二度とないであろう、妹の愛した男。
その顔を、声を、焼き付ける。
「フィオ君も」
そして背を向けた。
傍らのベンチには、いつかの真っ青な紐。
確かに彼が義弟だったという証明の、彼の髪を飾るに相応しい彼の瞳とよく似た、切ないくらいに願いのこめられたもの。
どうか、彼が……いつか。
安らげる場所を、見つけられるように……――――。
クレージェの去った後、フィリオはもう一つの魔力の気配の方へと向かった。
ずっとそこから動かない人が、いるはずだった。
人気もない静かな……そこは裏庭のような所。
色褪せはじめた木々の葉が、時折強い風に舞う。
彼女によく似た気配。けれど、もう間違えるはずもない。
その姿をとらえる。
最期の彼女と見紛う程の笑顔が、そこにある。
まだ少女のようだった彼女の、ひどく大人びた顔に似て――――。
私達が出会った頃。
まだ、貴方も姉さんも、そして私も、子どもだった頃。子どもで、いられた頃。
貴方は姉さんの前では、無邪気に笑っていた。
姉さんと一緒になって笑って、冗談で私を笑わせたりした。
私は知っている。
貴方が、姉さんの前でだけは、ひどく安心していたこと。
あの場所は、貴方のすがれる最後の手。
きっと、離したくはなかった、希みだったはず。
でも姉さんはその手を捨てた。
離したくはなかったかもしれない。でも、その手が腕ごと引き裂かれることを、甘んじて受け入れてしまった。
それが、運命で、最善だから、と。
腕だけになった手はもはや彼の場所ではなく、差し伸べられた手をつかむしかなかった彼は、闇を手にした。
優しすぎる心と残酷な血は同居を許さず、歪に整ったバランスは、彼を極限へ、高みへと導きはしたけれど――――。
殺しても、心は死なない。
浮かび上がった心は彼自身を苛み続ける。
忘れようと、彼は新しい居場所を見つけたのかもしれない。
痛みを忘れるために別の傷を作るような……そんな矛盾した行為でしかなくても。
他に、貴方は貴方を守る術が、なかったのだから。
貴方は、貴方でしか、いられなかったのだから……。
貴方は知らない。
「マナ、ちゃん……」
「お別れを、言いに」
声が詰まる。生きて、いるのだと……ようやく、実感する。
いつも、貴方は遠かったから。
「君に謝らないとね」
触れられるほど近くに、今貴方がいる。
貴方の“心”が、在る。
「君が、セナになってくれると思った。君は、セナじゃなかったのにね……」
切なげに目を細めて、自嘲の刻まれた声。
どうして、私は、この人を……
「フィオ、さん」
貴方に――触れてみたかった。
今、貴方をそっと、抱きしめているようにして――――。
「マナちゃん……――――?」
少し驚いた顔の彼を見上げる。
私が、代わりになれればよかった。
彼から離れて、思い切り笑おうとしたけれど、きっと泣き笑いのような、そんな顔をしていたと思う。
「本当に、女心の分からない
「――――――マナちゃ――――」
「さようなら」
お願い、何も言わないで。
「――――――――さよなら、マナちゃん」
もう、振り返りたくないから……。
遠くなっていく彼女の背を、オレは見ていることしかできなかった。
これで良かったのだろうか……。
ねぇ、セナ、いつか君に言われたのと同じことを言われたよ。
でも、オレはどうしようもなく鈍いから、きっと分からないだろうね。
銃の機嫌よりもずっと女心は難解で、理論じゃどうしようもないんだ。
ふと、空を見上げてみる。
「……生きてるなぁ……」
風が、踊っている。
遠く遠く――――サイル国の果てを目指して、クレージェ達は進んだ。
地位も財もなく、厳しい旅だった。
やがて川の流れをたどり未開と言えるほどの場所へ、彼らシルシェドール家の生存者はたどり着く。
フィオ君、最近思うんだ。
オレ達は、真実を知って、誰を恨みたかったのでもないんじゃないかって。
誰かに復讐したかったのでもなかったんだろうって。
ただ信じたかったから。
君が無実だと、信じたかったから。
君を、どうしても憎みたくなかったから。
理由が欲しかった――――君を憎まずに済む理由が。
そう、思うことにしている。
フィオ君、オレ達はようやく、前へ進めそうだよ。
君はどうしているだろうね。
ここは遠すぎて何も届かないから……君が、元気にしていると、いいんだけれど――――。
早朝、鉄の城のはるか上空を、悠々と飛ぶ姿があった。
その姿――飛龍は、慣れた様子で塔の上に降り立つ。
朝日にその影をくっきりと浮かび上がらせていた。
飛龍を撫で、労いながら、人気もまばらな朝の城をぼんやりと眺める。
と、その時、下へ続く階段を上ってくる足音がした。
かすかな魔力の気配。その才と、時々感じる儚さが、どことなくセナに似ていた、そう思う。
<深更>を渡したそのために、彼女はきっと傷ついたのかもしれない。
力無き者は、いつも悔いるだけだ。
けれど、力有る者はいつだって、利用され、己の力に苦悩する。
――――オレは彼女を、利用したのだろう。
「ただいま、アスト」
階段を上りきったまま硬直した私を振り返って、ただ彼はそう言った。
あぁ……私は、まだ大丈夫だ。
だって、彼は生きている。
たくさんの命を切り捨てて、踏み台にして、犠牲にして……。
それでも、生きているわ。
こんなにも、彼のままで……。
――――ねぇ、母様……。
私もまだ、生きているから。
「アスト?」
両手で顔を覆って、彼女はうつむいた。
どうしていいか分からずに、ただオレは動けなかった。
でも、なぜだろう……。
その細い肩が、白い指先が……愛しい、と、そう思わせた。
それはセナに感じるそれとは似ても似つかない愛しさ。
彼女を、その魂を……そう、まるで魔族がリディアールの魔力に対して無条件に惹かれるように。
無条件の愛とでも言うべき、一方的な愛。
これは魂の記憶。
公爵家に流れる、血の引力――――。
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