その時、イシルラの見つめる通りを、黒毛の騎獣が駆けてきた。
人々ははっと立ち止まり、後ずさる。
そんな彼らなど一切意に介さず騎獣を走らせていたリディアールが、丁度イシルラの正面で止まる形になる。
「お帰り。フィリオって奴、大丈夫だったのか?」
「あぁ」
そっけなく答え、リディアールは騎獣から降りる。
門番が開けた城門を、騎獣を引いて通った。
「なぁ、リディ」
イシルラの呼びかけを無視して進むリディアールが、次の瞬間立ち止まった。
「オレがアスト、もらっていい?」
「――――――何だと?」
「オレさぁ、アストのこと、本気で気に入ってるんだ」
「何を、ふざけたことを」
ゆっくり、リディアールは振り返った。
「ふざけてなんてないぜ」
余裕に満ちた笑みを、イシルラは浮かべている。
「リディ、オレにとっての王は、リディじゃないって知ってる?」
城壁の上から見下ろす格好で、イシルラはわずかに嘲笑を見せた。それは、リディアールよりも寧ろ、己へ向けられる自嘲のこめられたもののようだった。
「オレは魔族じゃないんだ。魔王だからって、遠慮しなきゃいけない理由はないんだぜ」
「――――そうだろうな」
リディアールは再びイシルラに背を向けた。そのまま、言う。
「好きにするといい」
「へぇ、いいんだ」
「ただし……私は手を引くつもりはない」
思いのほか強いその声音に、イシルラはなぜか笑った。
「何それ? 宣戦布告のつもり?」
リディアールがそれに答える前に、王を迎えるディオル将軍やキド副将軍が姿を見せた。
ゾルバ邸本館前の庭園にある白いベンチに腰掛け、当主の妻ユイス・ゾルバは空を見上げた。
美しい花々も、彼女の目には留まらない。
――――優しい夫であるカリオのおかげで、今私はかわらずこの家にいることが出来る。
でも、そのことをあまりうれしく思えないのだ。
あの人は私を愛している。
けれど、フィリオを……息子を、少しも愛してはいない。
今回はフィリオを助けてくれた。いや、時期当主であるフィリオを助けるはずだという、確たる自信があった。
今フィリオを失えば、次代のゾルバ家を担える者は、“まだ”他にはいないからだ。
だから最愛の息子が命の危険にさらされるような状況でも、作れた。脚本を書き、脚本のままにバーツェフ侯を誘導し、フィリオの命までも危うくした。
次は分からない。
あの人は、この家と、私のためにしか動かない。
一人息子の価値など、最も優秀な後継者としか考えていないのだろう。
それならば、守らなければ……でないといつかフィリオは、あの人に殺されてしまいそうで……。
きっとあの人は、少しだけ心を痛めながら、痛いと思いながらも、笑顔で全てを欺き、切り捨てる。
静かな靴音を聞きつけ、ユイスはそこで思考を中断した。
木々の間の小路から、たった今まで考えていた夫の従者であるニズラッシュ・ダラスが現れる。
「ユイス様、こちらでしたか」
「私のことを捜していたのかしら、ニズレー」
「はい。リディアール様がお帰りになられましたので、そのご報告を」
「ありがとう」
「それから、リディアール様よりお伝えするよう言付かったことがございます」
「あら、何?」
「今後、フィリオ様によからぬ風評が立つかもしれないので、領地内のことはゾルバ家で処理せよ、とのことでございます」
「そう……分かったわ」
ユイスは思う。誰よりもフィリオを大切に思い、気にかけているのは、リディアール様なのかもしれない。
けれど、リディアール様こそが、フィリオにとって一番危険な存在でもある。
一番、死に近い場所だ。
「ニズレー」
「はい、奥様」
「あの子を、お願いね」
「はい……私にできる最善を尽くして、お仕えいたします」
ユイスの元を辞し、ゾルバ邸本館の廊下を進みながら、ニズレーは思う。
自分はカリオ様にお仕えする身……フィリオ様にも、ゾルバ家のご子息としてお仕えしていることに変わりはないが、全てを尽くし。命を賭して仕えるべきなのは、カリオ様なのだ。
お守り申し上げなければと、そう思うのはいつも、どこか危なっかしいフィリオ様の方だけれど。
ニズレーのようなたかだか中級魔族風情が、魔王の副官を守ろうなど、うぬぼれもいいところだ。だが、殺しても死にそうにないカリオと違って、フィリオは少し頼りない。
それはきっと、優しすぎるからなのだろう。
自分は一体どうするべきなのだろう、と思う。
――――フィリオ様を助けたい。
しかし、本当はニズレーにも分かっている。自分には、選ぶことなどできないのだ。
あの声で命じられて、逆らうことはもう自分にはできない。この忠誠があるべき場所は決まっている。
それでも……できることがあるのなら……。
考えながらフィリオの自室の近くまで来る。珍しく部屋の戸が開いていた。
その内から親子の話す声がして、我知らずニズレーは立ち止まる。
「助けてくれたみたいですね。迷惑をかけてすみませんでした、父さん」
「言わないほうがいいと思うがね」
「えぇ、分かってます。まぁ一応」
父子の会話はすぐに終わり、残されたゾルバ侯爵と魔王の副官という立場で、二人は話し続けた。
労わりの言葉すらない。
貴族の頂点を極めるゾルバ家の、これが日常だ。
こんな父子の関係を、二人は冷たいとも薄情だとも感じない。フィリオは大貴族の嫡子に生まれたことを、恵まれていると思ったことはあっても、恨んだことは一度もない。たとえどれほどわずらわしいことがあってもだ。
「公爵家があったのは、どれほど前のことだったかねぇ……フィリオ」
カリオは、そう切り出した。
サイル国の貴族の爵位は現在、侯爵、伯爵、子爵、男爵の四つ。これは建国以来変わらない。
しかし、時を遡ること三百余年、サイル国の建国よりはるか昔……それこそ、貴族一長い歴史を誇るゾルバ家ができて間もない頃。
この魔族の領域に、公爵家が存在した。
侯爵より上に位置づけられる階級であり、貴族の最高位と言って相違ない。
国王と同等の発言力を持ったとも言われている。
当時の国王は、サイル国のように最強と認められた者というわけではなかった。そのため、国王と貴族の権力関係が今ほど明確でなかったようだから、公爵権限が強かったと言うより国王権限が弱かったとも考えられる。
この考え方は間違ってはいないが、実は正しいともいえない。
ただ一つ認められし公爵家。
権力を持ちながら、その行使を嫌ったともいう一族。
貴族の頂点に据えられた、その一族。
しかし誰が信じるだろう。
彼ら一族は、貴族の条件である上級魔族はおろか、中級魔族ですらなかったということを。
信じられようはずもない。カリオとて、疑っていた。だから、若い頃に読んだゾルバ家の当主の日誌のその記述を、忘れかけていた。
そして、思い出したのだ。
その項目の最後に、付け加えるように記された文章を。
その家名をターシヴル。
見目だけならば、確かに品格もあるようだ。不可思議な力を持っていたとしても、おかしくはないかもしれない。
カリオとフィリオは、続く一文によって確信した。
彼の公爵は、青銀の髪と、血で染めたような美しい緋色の瞳をしている。
「やはり、そうなのかねぇ……」
「オレと父さんは、同じことを考えているようですね」
父子は真剣な面持ちで言葉を交わした。
二人は戸口にニズレーがいることに気がついていたが、意に介さない。
どころか、まるで聞かせるかのように、カリオは口にした。
「アスト・ヴィクタール、か……」
カリオは苦笑した。初めて彼女に会ったときに感じた異質さ……それが、こういうことだったとは。
そんな父に向かって、フィリオは告げた。
「おそらく父さんの考えていることは、当たってますよ」
ターシヴル公爵家。
歴史の表舞台から、忽然と姿を消したのは、その日誌の書かれた数年後のことだったと言う。
「では、やはり彼女はターシヴル家の末裔か」
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