Blue Blood 胡蝶の夢

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二十話



 朝日の差し込む部屋の中は、一見して質素で、きらびやかさとは無縁だった。
 そうは言ってもやはり侯爵家――――フィリオの眠っていたベッドや書棚、書き物用の机など、全て庶民には考えられないほど高価な品である。何の変哲もないランプだと思えるものさえ、精緻な彫刻が施されたアンティークだ。
 リディアールが座っているピアノの椅子は、特に何の飾り気もないもので、ピアノ自体も同様だが、これも驚くほどの逸品だ。大変珍しい楽器に適した材木でかたどられた姿は、優美ですらある。このピアノ一台で、ソルバ家の本館を建て替えてもおつりがくるらしい。
「ところでリディ」
 その部屋の主フィリオは、半身を起こしてリディアールを見る。
「オレ、どのくらい眠ってた?」
「まだ一日も経っていない。だが、医者の話では三日は安静だ」
「三日か……耐えられるかな……」
 真剣に呟くフィリオに、リディアールは苦笑する。
「フィリオ、起き上がるのもたぶん本当は禁止だ」
「固いこと言わないでよ……じゃあ、おとなしく休むから、弾いてくれない?」
「――――何を、だ?」
「ヴァイオリン独奏曲、未来の旋律」
 曲名を聞いて、リディアールは一瞬黙り込んだ。
「――――フィリオ……私は、ヴァイオリンは……」
「ピアノの方でいい。あるでしょ?」
 微笑まれて、リディアールは嘆息した。
「譜もない。間違えても知らないぞ」
「いいよ。別に完璧に弾いて欲しいんじゃない。オレは、リディのごまかしが好きだしね」
「編曲だ」
 文句を言いながらも、リディアールは濃茶のピアノに手をかけた。白と黒の鍵盤が、整然と並ぶその楽器。
 そこに、リディアールの大きな武人の手。しかし、思ったほど節だっておらず、案外ピアノの上に映える。
 ほんの一音出しただけで、その実力は分かる者には分かるだろう。
 調律を確かめ終わったリディアールは、無造作にメロディを奏ではじめた。
 静かで繊細な音色が、朝に響く。
 ただの一音も違えることないそれは、どんな楽師のものより美しい。
 休むといってしまった手前、フィリオはおとなしくベッドへ横たわる。だが、演奏中に寝てしまうようなことはない。
「ねぇリディ、城に戻らなくていいの?」
 フィリオの問いに答えず、リディアールはピアノに向かったままだ。
「アストが、いるから?」
「――――……知らぬ」
「どうせ君が怒らせたんでしょ」
「そうではない」
 抑揚に欠いた声で言った。その表情は、フィリオからは丁度ピアノで死角となって見えない。
「……あぁ、アストは、そんなに簡単に怒ったりしないかな」
「……フィリオ……私は――――」
 ゆっくりと、演奏する指が止まった。
「アストに、傍にいられないと……消して欲しいと、そう、言われたのだ……」
「それで?」
 顔を見たいと思ったが、さすがに足の傷のことを思い、立ち上がるのはやめる。
「ねぇ、リディ……君はそれで、アストに何て答えたの?」
「言える訳がなかろう……私は魔王だ。自ら選んだのだ。弁解の余地など、ないだろう?」
「じゃあ君は、何も言わなかったの?」
「……引き止めようとは、した」
「すぐにあきらめたけど?」
 リディアールは、怒ることさえしなかった。
 フィリオは諭すように声を重ねる。
「君が遠慮する意味があるとは思えないよ。そんなことは、今更すぎるから。君が魔王で、アストの近くにずっといることは罪だって言うなら、初めからアストを助けなきゃよかったんだ。もっとはやく、アストを遠ざけておけばよかった……違う?」
「……しかし……」
「今までだって、君とアストは十分おかしな関係だった。どうして今回だけだめなの?」
 口ごもるリディアールは、ただ困惑していた。
「ねぇリディ、君はどうしたい?」
 頼りないリディアールの姿に、フィリオは思い切ってリディアールを追い詰めるように、立て続けに言葉を重ねていく。
「アストの言ったこと、本当にそれがアストの本心だって思う?」
「アストに……守るのだろうと、言われた。だから、アストは私が守ってもいいのか……? だがフィリオ、アストを守り続けて、私はそれでいいのだろうか……アストは、本当はもう、私の傍にいることが苦痛なはずだ」
「どうして?」
「……いつも、辛そうな気がしていた……私は、アストが何でもないように笑うのをいいことに、知らぬ振りをしてきた」
「それだって、アストの本心だとは限らない。君が辛そうに見えたというならそうかもしれないけど、リディ、ちゃんと聞かなきゃ分からない。伝えなきゃ伝わらない。君はとても不器用だし……アストは、難しい人だから」
 フィリオはうつむいて、自嘲気味に笑った。
 伝えようとしなかったから、オレはだめだったのだ、と。
「言葉にしにくいこともある。でも、言葉にして初めて、実感することもあるんだよ」
「……そう、かもしれないな」
 リディアールは苦笑した。
 そして、やがてやわらかな微笑に変わる。
 フィリオとこんな風に会話をするのは、ひどく久しぶりな気がして、懐かしさのようなものがこみ上げた。
 紛らわすように、リディアールは止めていた指を滑らせ始めた。
 朝の空気に溶けるような音色。王族らしい所作を何一つ積極的に身につけようとしなかったリディアールが、唯一自ら進んで興じた貴族のたしなみが、楽だった。魔王となってからは滅多に弾くこともなくなったように見えるが、時折一人で弾いていたことを、フィリオやディオル将軍は知っている。
 それほどリディアールはピアノが好きで、そしてその腕は一級品だ。
 緩やかなメロディに乗せて、そっとフィリオは言った。
「ごめん、リディ」
「何だ?」
「君を、裏切りそうになった……」
 伏し目がちに、フィリオは言う。
「本当は、あの時死んでもいいと思ったんだ……セナに、会えるなら」
 率直に謝罪するところがフィリオらしい。だからリディアールも、軽く答えた。
「お前は私を裏切らないし、どの道そんなつまらないことで死ねば、あの女はお前に会おうとはしないはずだ。違うか?」
「……あぁ……そのくらいのことも、思いつかなかったよ」
 苦笑したフィリオの方を、曲を弾き終えたリディアールは立ち上がって見た。
 ベッドに横たわったままその視線を受けて、フィリオは真剣な瞳でリディアールを見返す。
「ねぇリディ、オレが死んだらどうする?」
 その言葉に、リディアールは少し困ったような、辛そうな、そんな顔をした。
 フィリオは頬を緩める。
「冗談だよ、本気にするな。――――オレがリディを残して死ねるわけがないんだから」
 くすくすと笑いながら、フィリオは言った。そんなフィリオを、リディアールは複雑な表情で見下ろす。
 リディアールに対してこれほど素直に感情を表現するフィリオ。それをリディアールは羨んでいる自覚があった。いつだって、これほどフィリオは自由だ。
 きびすを返し、戸に手をかけてリディアールは立ち止まる。
「……言った筈だ」
 リディアールはフィリオを直視せず、怒ったように言う。
 そんな姿さえ何だかおかしくて、フィリオは微笑んだ。
「解ってる……約束、だろう?」
 ――――オレがお前を、超えてやる。
 ――――約束を守るまで……私より先に死ぬことは許さない。
「よく、覚えてる」
 けれど……。
 フィリオは知っている。
 リディアールを超えることは、きっとないということ。そしてリディアールはフィリオがいなくなったとしても、大丈夫だということ。
 魔王ではいられないのかもしれない。それでもきっと、大丈夫なのだ。
 何かの縛りがなくなったら、きっとずっと楽に生きられるんだから。
「フィリオ……早く、戻って来い。お前がいないと、仕事がたまってかなわない」
「自分ではやらないくせに」
 君がいないと、オレはだめになってしまうだろうか。
「リディ」
「……何だ?」
「アストって、綺麗だよね」
「は? フィ、フィリオ……?」
 大切な君が生きていないと、すぐにでもセナの元へ行きたいくらいなのだから。


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