「リディアール様?」
ディオル将軍は、考え込むリディアールを呼ぶ。
「あぁ」
壁に独り寄りかかっていたリディアールは、かすかに額に汗を浮かべるイシルラとディオル将軍を見やった。
「それで、どうだったのだ?」
アストとフィリオを待つ間、どうせだからとイシルラの剣の技量も見てみたいということになり、ディオル将軍が相手をしていたのだ。
「なかなかですよ。多少の心得はあるようですので」
「何?」
「あれ、言わなかったっけ? オレ、ティラード王国の軍にいたこともあるって」
イシルラは飄々としている。
「っていっても、ただの一兵卒だけどさ。剣ぐらいは使えるぜ」
「成る程な」
不機嫌そうに言ったリディアールの前を、二本の木刀を手にしたディオル将軍は、敬礼して辞した。射撃場の中央に位置する闘技場を足早に去る。どうやら仕事の時間のようだ。
「あ、そうだ。オレも聞きたいことあるんだけど」
「何だ?」
「アストの手の甲にあった、蝶は何なわけ?」
「あぁ……あれか。あれは“喚び声の刻印”と言って、特定の者を呼び出せるようになっている」
「そんな便利なものがあるんだ。魔術って便利だな」
「そうでもない。制限も多いのだ……あれは、一種の縛りだからな」
「へぇ? 例えばどんな不都合があるんだ?」
術が発動されれば、発動から数日過ぎた頃に激しい消耗が襲う。術の発動者であるアストではなく、喚ばれた側のリディアールが、である。そうでなければアストに術を施すはずがない。下級魔族のアストにもしも発動の魔力を補わせようとしたなら、死んでしまうかもしれないくらいの上級の魔術なのだ。かく言うリディアールの左手は、その影響で巧く動かせない。すっと外して見せた手袋の下の肌は、常より青白く血の気を失っていた。
リディアールは面倒くさそうに説明した後、手袋をはめなおしながら言う。
「まぁ、大した支障はない。好んでこんな魔術を使う者は、あまりいないだろうがな」
片手が使用不可になりかねない程の事態を、大したことはないで済ませてしまうところは、さすがというべきであろうか。イシルラはからかうように笑った。
「そんなこと、会ったばっかのオレに話していいわけ? 意外とオレは、あんたの命を狙う人間側の刺客かもしれないぜ? そうだろ、リディ」
「そうだな。……だが、片手でもお前のような者に負ける気はせん。生憎私は、剣を片手で持つのでな」
そういった時には、リディアールは威圧的に微笑していた。
「今にそんなこと言えないほど、強くなってやるよ」
「あぁ、せいぜい頑張ることだ。お前をただで城に置くつもりは毛頭ない。自分の身の安全くらいは自分で確保することだ」
「はいはい」
軽く手を振って大の字に床に転がったイシルラは、意外にも没収されなかった自分のナイフを懐から取り出した。
たった一つ。これだけを手に、イシルラは“壁”を抜けた。
それが危険な行為であることを知りながら、魔族の領域を──町を、目指した。
別に命を粗末にしたかったわけでもない。でも、妙な自信があったのだ。こちらの国で、決して自分は死にはしない。そんな自信が。
ナイフを革製の鞘に収めて手に握り締め、目を閉じた。
そんなイシルラの様子を、無言でリディアールは見ていた。
強くなると言った、迷いのない声が蘇る。そして、思考の渦に沈む。
この男は、私の望みを叶えるだろうか。
古い王家の書物に、変革者と記された“壁”を抜けてくる人間。ただの、人間だ。
だが、私とてただの魔族に過ぎない。
ならばただの人間にも、手にしたその小さなナイフで、私の望みを叶えられるのかもしれない。
後ろ向きな思いだけが、リディアールを支配する。
先程の、少年時代の様子を再現した白昼夢の影響もあるのだろうが……。
いつか本当に彼自身よりも強い者が現れれば、リディアールはきっと、“わざと”戦いを仕掛けるだろう。
────逃げ道が、欲しい。
魔王であることから、ほんの一瞬でいい……逃げて、みたい。
怖いのだ、私は……。
いつか、全てを壊してしまいそうで、怖い。
「リディ、待ってたの?」
リディアールの思考を断ち切るように、フィリオが通路から顔をのぞかせた。
「あぁ、まぁ、そんなところだ」
フィリオの少し気遣わしげな声に気づき、リディアールは何でもない風に返した。
「……いや、フィリオ、先に戻ってくれ。ディオルが仕事に戻っているはずだ」
密かに自嘲する。
私も、愚かなことを考える……。
「うん。でも、まだリディも仕事が残ってるんだから、早く戻ってきてよ?」
「分かった」
その時跳ねるように起き上がったイシルラの向こう側で、アストがこちらを見ていた。
「……アスト?」
「何でもないわ」
即座に返った言葉は、彼女にしては珍しく沈んだ声に聴こえた。
「あ……気をつけてな……」
わけもなく動揺し、口ごもるように語尾はしぼんだ。
「何に?」
「いや……それはまぁ、いろいろ」
何か言わなくてはと思って口にしたはいいが、言葉になっていない。
中身のない会話をする二人をよそに、フィリオとイシルラは構わず外へ向かって、消える。
その間中、アストは紅い夕焼け色の瞳で、リディアールを直視している。
────全て、見透かされてしまわないだろうか。
「リディアール」
全て、見透かしてくれないだろうか……。
呼吸をするくらい自然に持ち上げられた両手。
その手の中の、向けられた、銃口の意味。
「……アスト……」
迷いのない照準が、リディアールの頭に定まっている。
立ち尽くし、そのまま二人は動かない。
不思議と緊張感がない。
まるで普通に対峙しているだけのように、何気なく立っている。
やがて、たいした時間も経たないうちに、アストは銃口を下げて何も言うことなく出て行った。
響くのは、高い靴音。
リディアールは時に笑いかけ、時に牙をむく美しい少女の後姿を追わない。
銃口を向けられても、驚きはしなかった。アストにはもう何度も剣を向けられている。
切りかかってくるでもなく、何かを言うでもなく、ただ、彼女はリディアールに牙を向ける。
静かなこの怒りこそを、リディアールはよく分かっていた。それでも、今の状況にすがっている。
うぬぼれても、いいだろうか?
まだ少しは信じていいだろうか?
私が彼女の傍に近寄ることを、拒絶されてはいないと。
彼女に話しかけた言葉を、まだ聞いてくれていると。
分からなくなる。
彼女は、こうした後でもきっと、笑うのだ。
誰もにするように、微笑む。
私にさえ、例外なく接する。愚かでどうしようもない、この私に……。
それなのに、時折激しく拒まれている気がする。
これは、ただの思い過ごしだろうか?
だとすれば、彼女の剣は、銃は、何を伝えているというのだ。
冷たく光る銃口で、何を告げたかったというのだ。
醜く愚かな魔王を、彼女は知っている。
私には、何も分からない……────。
いつか、アストは私を許すだろうか。
リディアールはいくつもの血に濡れた剣を静かに抜き、刀身に映る姿を無言で見つめた。
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