あわただしく陣を整える黒軍兵士達とは対照的に、比較的大きな岩の上に座り、一人のんびりとしているのは、この出兵にはあくまで無関係に来たと自称するカリオだ。
「カリオ殿、そちらへ行っても?」
そのカリオに声がかかる。
「どうぞ、将軍」
ディオル将軍は、大岩に楽々と登ると、カリオの傍に座った。
「カリオ殿、貴方のお考えを……その策を、聞いても良いものかと、そう思っていた次第であります」
「考えかね。確かにあるが……だが、期待はしてはいけないよ。私の気持ちは変わらない」
表情一つ変えず、カリオは言う。
「私は国のためには動かない。フィリオの手助けをする気もない。以前も言ったがね、私はこの程度のことで命を落とすような愚か者に、ゾルバ家を継がせる気はないのだよ」
「それが、貴方の策と関係が?」
「さぁ、どうだろうねぇ……何しろ、悪い女がからんでいる。私もおいそれとは動けないよ」
「女、ですか?」
「我が愛する妻、ユイスだよ、将軍」
疑問符を浮かべかけたディオル将軍は、そこで気づいた。
「バーツェフ、ですね」
「そう。ユイスは私の妻でありながら、バーツェフ一族にも属するのだよ、将軍」
「では、奥様は貴方に敵対すると?」
カリオはそんな可能性などなんでもないように、笑っている。
「面倒な人を好きになったものだ、私は」
冗談とも本気とも知れない、カリオの言葉。どう返していいかわからず、ディオル将軍は口ごもる。
思いついたようにカリオが言ったのは、気まぐれだったのだろう。
「将軍、鍵のない錠は外せないがね、たいていの場合、そんなものは壊せばすむことだろう?」
「……はぁ」
今度こそ意味が分からず、ディオル将軍は一応相槌をうつ。
「案外、もろいものだ。人であることを棄てさえすればだがね」
「閣下は、ご自身が人ではないと?」
「私は人だ、だがね、枷はいらない。だからたまに、人を棄てたくなるのだよ」
遠くの岩陰から従者ニズレーが現れた。カリオを探しているらしく、辺りを見回している。
「では、人を棄てれば、どうなるというのですか?」
「簡単だよ、将軍」
軽々と飛び降り、ディオル将軍を見上げる。
「そんなものは、ただの化け物さ」
そして私は、出来損ないの醜い化け物────。
「閣下、聞いておられますか」
「聞いていなかったよ、ニズレー君」
事もなげにカリオは言うと、何か報告していたニズレーの手に軍用刀剣を手渡した。
「持っていなさい。ニズレー君の腕で銃だけに頼るのは危ない」
それはそうだ。乱射して弾切れでは笑えない。
「閣下はよろしいのですか?」
「私はいいよ。どのみち最小限しか戦う気はない。私は自分の身が守れればいいし、エルのように元気ではないからね」
エルベルクス・バーツェフの愉快そうな顔が目に浮かび、カリオは珍しく眉をひそめた。
「下手な銃だとどんなに弾数があっても無駄だろう。リディアール様やフィリオ相手なら、なおさらね」
だが、たいしたことのない腕の者には?
銃弾を完璧に避けられる反応速度を持つ者など、滅多にいない。
バーツェフ家の用意した銃は<細馬>だ。照準がきちんと合わない、カリオに言わせれば粗悪品だが、元から合わせられない素人が使うなら十分だ。まともに銃を扱えるものが軍でもそれほど多くない中、バーツェフがこれほどの量の銃器を、大金をかけてそろえた理由など一つ。兵の不足を補うために他ならない。
そしてリディアールには、数という武器はないのだ。フィリオさえ、いない。それこそがバーツェフ家の勝機。
「今回銃は使わないほうがいい。君にはもともと剣の方があっている。それに、できれば余計なことはしないことだよ、ニズレー君。君の手に負える相手じゃないからね」
「分かっております。私が、足手まといにしかならないことは……」
取り立てて落胆するとかいう感情はなく、事実としてニズレーは言う。
「いいんだよ、ニズレー君。君はそれが分かるから、ただの足手まといではない」
だからこそ、カリオはニズレーを傍に置いている。いてもいなくても、それほど変わりないのは分かっていても。
「あぁ、それから一つ、命令だ」
「はい、閣下」
「フィリオに決して、手を貸そうと思わないこと」
「それは、どういう……?」
「言葉通りだよ。たとえニズレー君の目の前でフィリオが血を吐いて倒れようと、撃ち殺されようと、君の名を仮に呼ぶことがあったとしても、決して手を出してはならない」
「私にできることがあると、思っても、ですか」
「無論だ」
「なぜです、閣下……」
「私がその質問に答えなければならない理由はない」
ニズレーはカリオを見つめる。決して届かない願いを込めて。
どうか、フィリオ様を見捨てないで欲しいという、願いを。
「ニズレー君、君の答えを聞こう。ごく簡単な二択だろう?」
やがてニズレーは、ゾルバ家当主に向かって告げた。
「────御意にいたします、閣下」
幻想は、決してその手につかめない。
だから、儚い。
それならば私のこの世界は、幻だというのだろうか?
こんなに不確かで、消えてしまいそうなのだ。
私の見る夢も、この私自身でさえも、儚いものだというのなら……。
私は幸せになれはしない。
この永遠に揺るがない事実まで、儚く消し去ってしまえればいいのに。
全て崩れ、何もかも失って、私はそれまで守られていた。
だから、まだここにいる……答えは出ていない。
リディアール、私はまだ、消えていないわ。
自分から別れを告げようとしているのに……引き止めて欲しい。
他の誰でもなく、あなたに。
そしてあなたの手をつかめないから……だから、私は待っているのかもしれない。
フィオ、もしもあなたなら──引き止めてくれるのだろうか。
小さな血だまりができたその上に、フィリオは立っていた。────否、支えられて何とかそこにいたと言うべきなのかもしれない。
「それではこれより、リディアールの軍と交戦することとなる。皆、心してあたれ」
耳に入るだけで流れていくバーツェフ侯の声──そして明らかにそれとは異質の、耳に残る声がして、フィリオは意識をその声に傾けようとした。
「フィリオ」
次ははっきりと、耳元で聞こえる。
もう随分と長い間、聞いていなかったその声。
「お願いよ」
力強い声、そして彼女は手を握る。
昔、言われたことがある。
お願いだから、死なないで────と。
手から伝う確かなぬくもりは、間違えようもなく母の魔力。
「────か……あ……さ────ん……」
声にしたのに、それはほとんど音にならなかった。
あなたが来るのはとうに予測済みだよ、母さん。
オレが分かるんだから、父さんに分からない訳がない。
それを母さん、もちろんあなたも、分かっているんだろうね……。
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