その男が姿を見せた瞬間、空気がざわめいた。
立っている事すらままならず、力なくうつむいた彼……その姿は、“破戒の敵機”とは程遠く思われたのだ。
袖口から時折滴る血は、ますます彼に死の影を落とす。
「気分はいかがかな、“破戒の敵機”」
バーツェフ侯は進み出ると、うつむくフィリオの顔を上げさせる。
「顔色がよくないようじゃが?」
「貴方の事を、憂えて、いるのです」
フィリオはかすかな微笑と共に、かすれそうな声で言った。
それでもなお底光りする碧眼が、変わらぬ威を放っている。
────魔王の副官として……。
「わしの心配とは、いかなるものかの……?」
「こういうことですよ」
刹那、フィリオの左手にあったのは<紅雪>、だがバーツェフ侯の額にあてられた銃口を出るべき弾は入っていない。
「貴方は、負ける」
「お主に予見の力があるとは、聞いておらぬが?」
一蹴しようとしたバーツェフ侯を、フィリオの両瞳が捉えた。
「貴方に、王は消せない」
圧倒されそうな己に気付き、バーツェフ侯は嘲笑する。
「それがどうした、“破戒の敵機”」
身をひる返し、昏い銃口に背を向ける。
王を消せぬ?
そうだ……だからこそ、フィリオを捕らえたのだから。
切り札は、お主だ────。
「死に損ないめ……」
憎々しげに呟いた。
少女は立ち尽くしていた。
少年の手の中を崩れ落ちた、母を見つめて。
少年はその身体にいくらかの返り血を浴びて、振り返る。
神々しいまでの、金の髪。
吸い込まれそうに昏い、その瞳。
それは少女の緋色の……夕焼けの瞳を刹那とらえた。
────コワイ。
少女は本能的に、思う。
しかし、身じろぎ一つできない。
……それは、わずかなとき。
まるでそこにいる少女に気付かなかったかのように、少年は少女の傍らをすり抜け、その部屋を出て行く。
音を失いかける少女の世界に残ったのは、少年の足音と……
「リディアール殿下」
そう、少年の名前だけ。
やがて少女は世界を捨てる。
ただ、美しくも空虚なその瞳にうつすのは、果たして真実なのだろうか……。
「リディアール」
地平を見つめていたリディアールは、振り向いた。
「……アスト、どうかしたのか」
アストの姿を見れば、リディアールは不器用に笑う。本当に微かだった。
それは、会いたくないという怖れのあらわれ。<月華>を用いて廃人にしたリディアールを、アストは許さないかもしれない。
「リディアール」
もう一度呼ぶ。アストはリディアールの予想に反して、いつものように笑った。
「────アスト?」
「私は、今更何とも思わないわ」
何のことを言っているかは明白だった。
血を見せないという、その言葉。
確かに戦乱は終わったかに見える。けれどそれは、リディアールが剣であがなうかりそめの平穏────。
アストの願いはそもそも、あまりにも矛盾した言葉だった。
だから矛盾を正す。願ったその言葉と反対の言葉で。矛盾した言葉で。
約束の無効を、告げる。
「あなたが戦うことでしか生きられないことは、知っていたの」
困惑するリディアールに、アストは突きつける。
「もう、十分だわ」
失笑しかできない自分に嫌気がさす。
そう、笑っていたかったのだ。忘れた、振りをして。
それは誰でもない、アストだけの願い。
「ねぇ……どうして、私は生きているの?」
「っ────それは……!」
「どうして助けたの? あの時だけじゃないわ、ずっと昔もよ……。気まぐれだというのなら、もういいわ」
リディアールは口ごもる。
「私は助けて欲しいと言った? リディアール、あなたに争いのない世界はつくれない。だから、私を……」
美姫は苦しげに微笑んだまま、確かに言った。
「私を消して」
リディアールは首を振る。
「違う……気まぐれなものか……私は、アスト……違うのだ!!」
「私はね……もう、ここにいたくない」
「アスト!」
「だって、あなたがいるから」
「……アスト、私は……」
「ずるいのは私。だから、あなたにこんなことを言っているんだわ」
見限って欲しいのだ。邪魔だといって欲しいのだ。そうすれば、リディアールは真の魔王になれるだろう。
「ねぇリディアール、もう、やめましょう。もう決まっていたことじゃない」
「そんなことは──」
「これ以上、あなたの傍にいられない」
知らないほうが幸せなことはある。それでも、知ってしまった事実を忘れるような都合のよさはなかった。
「アスト、私は、誰も……」
泣きそうな顔をしたリディアールを見つめる。それも知っている。あなたは誰も殺したかったのではない。
「それがあなたの願いでも、叶わないことくらい知っているの」
すり抜けるように、アストの微笑みは人形のように無機質になっていく。
「あなたは、魔王だから」
「私は違う!!」
「そうね……それも、知ってるわ」
身を翻したアストを追うこともできず、呆然と立ち尽くす。
こぼれ落ちていく。
日常が音を立てて壊れる。
────日常? そんなもの、始めからどこにあったというのだ?
どこかで作り物だと、そう分かっていたのに……理解したくなかったのだ。そうだろう?
「────アスト……」
自分にはその名を呼ぶ資格すら、始めからなかったのだ。
微笑みは、あれはそう──拒絶だ。
リディアールが何より恐れていたもの。
アスト、私には、お前を殺すことなどできないのだ……。
なぜか分からない。そんな気がしているだけ。
「……私が……?」
魔王、それは何よりも強さの称号。
いつの頃からか、魔族の国の王をそう呼ぶようになった。
そしてこのサイル国においても、魔王とは国王であり、魔族の長であり、最強の名だ。
魔王。自分はそんなものではない。
リディアールは荒野を見つめ、呟いた。
「────ただの腑抜けた」
険しい表情の先に、何が映されているのかは分からない。
彼は一瞬瞑目して立ち上がり、<月華>の<火雲>の柄に手をかけた。
もうそこに、一瞬前のリディアールはいない。
いるのはそう、戦いの王、リディアール・ダリ────。
「あの、よろしいのですか?」
バーツェフ侯に問う男は、先刻のフィリオの様子を見てやや心配していた。切り札を失うのではないかと懸念したのだ。
「構わぬ。あれしきのことで、奴は死なん」
「ですが、どう見てもあれでは……」
「お前はあれを誰だと思うておる? ゾルバ家の長子……まがりなりにも魔王の副官じゃ。あれ程の魔力の持ち主が、易々と死ねると思うか?」
「────易々とは、死ねませんでしょうが……」
「そうじゃ。楽に殺してやる気はない。それではつまらぬでな」
机上に広がるのは地図と駒。
「これから、出られるのですか?」
「そうでなくては、破戒の敵機は使えぬ。あやつは、そうさな。気力で絶っているようなものだ。気を失われては駒にもならぬわ」
「ですが、痩身の奇策士のことです、息子を救出する策があるのではありませんか?」
「それはなかろう。あの男は利益か己の気まぐれにしか動かんよ。息子が助かろうがどうなろうが、ゾルバ家にとっては大した違いはないとふむだろうな。何せ副官である以上、あの息子がゾルバ家を継ぐことはありえぬ」
「そうなのですか?」
「少なくともリディアールが在位のうちはそうじゃろう。案外、奇策士の狙いはそれやもしれぬな」
「リディアールを引きずりおろす、と?」
「あの男は何でもやるはずだ。それが、己の一族のためとあらばのう」
「その通りですわ」
背後から女の声がして、はっと男が振り返った。悠然と、小柄な女性が立っている。
「伯父様、フィリオを傷つけるのも、そのくらいになさってくださいませんか?」
「あぁ、すまぬと思うておる、ユイス」
「ユイス様……? ユイス……ゾルバ……?」
男は我知らず、その名を呟いた。それはゾルバ家当主の妻の名前だ。
「私はフィリオを心配しておりますの。ここままでは私、心労で病んでしまいましてよ?」
「それは都合のよいことじゃ。奇策士の目をごまかせる」
「あら、悪い人」
無邪気そうに彼女は笑う。
「お前も、悪い女だ、ユイス」
バーツェフ侯の声が、かすかな余韻を残して消えた。
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