*
「言霊師、って言うらしいよ」
「そんなにお気に召されましたか?」
問われ、少年は嗤う。
「まぁね。……えーっと、イシルラ、だったかな。いつ、裏切ると思う?」
「あなた様に逆らえる者がおりましょうか……」
直立の姿勢で即答した男の顔を、少年はそのあどけない顔で下から覗き込む。
「そうかな? いつか、誰かが僕に背いてくれると思うよ」
広いその部屋には、少年と男の他にも、何人もの男女が平伏して控えている。
「そんなことをおっしゃって……もしも背けば、どうなさるおつもりですか」
部屋の天井に、少年の地位を示す印章がある。
「決まってるじゃない」
少年はつまらなそうに告げる。それを、頭上に冠して。
「────赦さない」
その印章こそ、人間の住む世界で最も“壁”に近い国、ファシルルード王国が王家、ティラード家の紋章。
「ねぇ、早く連れてきてよ。あいつ気まぐれだから、すぐいなくなるんだ」
「えぇ、おっしゃるとおりに……」
男は少年の前に深々とひざを折り、そっと退出する。とたんに剣呑な表情を浮かべると、待っていた部下を一瞥する。
「まだ見つからないのか?」
「申し訳ございません。今しばらく……」
「陛下の御心が許すうちに、急げ。……全く、あの男……陛下のことを何だと思っている……」
「何とも」
背後からの声に、男は振り返り、そこにいた人物を睥睨した。
「……何だと?」
「なんてね。オレを捜してたんだろ? 陛下は中か?」
「そうだ……早く行け、お待ちだ」
「はいはい」
何の気負いもなく、彼はノックさえせずに、部屋に入っていく。
忌々しげに男はつぶやいた。
「なぜ、陛下もあのような者を……」
「ただいま参りました、陛下」
「あぁ、挨拶なんかどうでもいい。早く来てよ。今日は、お前に頼みがあって呼んだんだ」
少年の無邪気な笑顔に、同様の笑みを浮かべて返す。
────頼み? 命令の間違いだろう。
「お前の言霊で、あのおかしな壁を消してみてくれない? 出来るでしょ?」
「────陛下、大変申し訳ありませんが、オレの言霊にはそんな大それたことは出来ませんよ」
「どうしてさ? 言葉にしたことが具現化する、そのお前の能力に不可能なんてないはずだ」
「……以前お話しましたように、言霊の力は自然と相反することを簡単に叶えてくれはしません。そして、あの壁のような強い力に打ち勝つことも、不可能です」
もっとも、確かめたことはないけれど。
「お前は、やる前から出来ないって言うつもり?」
「申し訳ありません。ですが、オレも闇雲に無理と言っているのではない」
わがままな陛下。
誰も逆らわない、この国の王。
「僕は壁の向こうに行ってみたい。魔族の国があったって言われてる場所に、楽園があるんだってさ」
「楽園……? それは、確かとは言いがたいことですね。王家に伝わる書物も、広く世に出た書物も、所詮はるか昔の記録を何度もうつしかえた物。頭から信じるのは、良くないと────」
「見たいんだ。僕が信じてるんだから、きっとある、だろう?」
あぁ、どうやらオレは行かなきゃならないみたいだ。
「それでも、あの壁を壊すことは不可能です。絶対にできません」
「なら壊さなくてもいいよ。僕の欲しいものがあるか、見てきて?」
「あの壁を通った者は、記録にはいなかったと記憶していますが」
無駄と知りつつ、ささやかな抵抗を試みた。
「だって、僕が頼んでるんだよ? 行けないわけないよ。だって、僕の頼みを聞くことは、ごく自然なことだろう? 自然に逆らってなんていない」
思い通りになることばかりではないと、どうして分かんねぇのか……。
「────御意」
*
「オレは、やっぱりエリウスの思い通りなのかなー」
「兄さん、何か言ったかい?」
「いやー、何も」
石炭を燃やす嗷という音にかき消される声は、大声でなければ届かない。
イシルラは操縦室の隣の狭い廊下で、強い風を受けて立っていた。
ファシルルード王国では見ることのなかった生き物が、時折彼の視界の端を過ぎていく。
そんなイシルラの傍で、二人の乗務員は休みなくこの車両を動かす源を、炉にくべている。
「なぁ、オレ何か手伝おうか?」
「いや、客にやらせるわけにゃいかないよ。……ところで兄さん、私兵かい?」
「違うけど?」
「そうかい。勘違いだ、すまねぇ。黒軍の皆様とはだいぶ格好も感じも違うからな、てっきり。いや、悪かった」
「あ、って言ってもオレ黒軍じゃないし」
「……てことは、客人かい? こんなときに同行してるなんて、変わった客人だが」
「あー、別に、客ってほどの客でもないっていうか……オレも良くわかんないな」
「何だそりゃ」
「やっぱ手伝おうか?」
「いや、どんなお方もお客には違いねぇ」
「そうか? オレもかなり暇でさぁ……────ん?」
何かが見えた気がして、イシルラが目を凝らした瞬間、前方で火花が散り、わずかに遅れて破壊音が轟いた。
無言で立ち上がったリディアールは、次の瞬間アスト達の目前から消えていた。
操縦室の扉が乱暴に開け放たれ、何の断りもなく立ち入ったリディアールは、小窓から前を覗く。そして、一言。
「何事だ」
「分かりません。……少なくとも、車両に異常はないようですが」
「イシルラ、お前は何か見なかったか?」
なぜか操縦室に陣取っていたイシルラに、リディアールは問う。
「見たといえば……たぶん。線路が破壊されたみたいだった。橋の上あたりかな」
「ブレーキをかけろ、停止させれば……」
「無理だって。この距離じゃもう間に合わない」
「ならば貴様、河に落ちろとでも言うのか?!」
「そんなこと言われたって困るな。リディの魔力って、浮かせたりとかできねぇの?」
「できない」
「だめなんだ」
「うるさい。とにかく、スピードが落ちれば飛び降りることも可能だろう」
「でもそれじゃあ隣町には着かないぜ? 色々運んできたのも無駄になる」
「ならば……どうしろと言うつもりだ、イシルラ?」
リディアールの怒気が空気を揺らす。深淵の闇がイシルラを睨んだ。
「リディアール様、少し落ち着かれてください」
そんな時、カリオが相変わらずの余裕で現れる。
「橋までの時間はせいぜい一分。さて、イシルラ、といったかね?」
「は? オレ?」
「話は聞いたよ、言霊を使うらしいねぇ……どうにかならんかね?」
「あのさ、言霊は万能じゃないんだって。魔力だってそうなんだろ?」
「そうだよ。でも今はそんなことを言っている場合ではない。今まで試したことはないだろう? だったら無理だと決め付けるのは、いささか性急に過ぎると思うがね?」
「まぁそうかもな……でも失敗したって責任とれねぇぜ?」
「それは安心していい。どうせその時は全滅だ。あぁ、リディアール様なら助かるかも知れんがね」
話している間にも列車は走り続け、橋はもう、すぐそこだ。
「やってみる価値はあるだろう?」
「仕方ねぇなぁ……」
意を決したように、イシルラは笑う。紫色をした瞳が、かすかに光った。
『飛べ』
*
深い森の中、触れてみると確かにそこに壁がある。
数人の付き添い、もとい監視は、己には通れぬ壁“悪意の壁”の前に、イシルラを突き出した。
「これが、壁か……」
実際に目にするのは初めてだった。いや、目にするというのは語弊がある。不可視のそれは、触れて初めて感じられる。
イシルラは、触れた手のひらをそのまま押した。
手首から先が不意に抵抗を失い、向こう側に通り抜けたことを主張する。こちらから、その通り抜けた手首は見えなくなっている。
「……通れる、か……」
苦笑して、そのまま一気に足を出す。
ためらいはしない。
ただ、向こう側の世界に行くだけのこと────。
*
宙を走る車体に、一同は唖然とする。
一度のまばたきもしないイシルラは、線路のあるところまで飛んだことを確認すると、わずかに肩の力を抜いたように見えた。
ゆっくりとレールの上に戻った車体は、何事もなかったかのように走り続ける。
「────成功しちゃうなんて、ちょっと意外だったな……」
イシルラは前方を見渡せる窓に手をついて、そう言った。
「それに、言霊で疲れたのは初めてだ」
操縦室からのろのろと出て行くイシルラに、リディアールとカリオは視線を向けている。出たところには将軍も控えていた。
「おい、イシルラ」
リディアールが呼び止めた。
「今度ばかりは、礼を言おう」
明らかに不服そうな声音が、背中越しにイシルラに伝わってくる。
「どういたしまして」
走り去った車両を目で追いながら、彼らはまだ立ち直れていなかった。線路を破壊したバーツェフ侯爵の私兵だ。
確かに、レールは壊れたはずだった。
では、この目が見たものは真実なのか?
あの巨大な車体が飛んだ。
信じられない……。
「莫迦な……」
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